恋時雨~恋、ときどき、涙~

それでも、わたしは、胸元を押え続ける。


手のひらに、凄まじいほどの振動が伝わってくる。


もし、もしも、だ。


この振動が音なのだとしたら、きっと、すごく大きな音なのではないだろうか。


だって、わたしの手のひらが、振動の激しさにびっくりしているくらいなのだから。


わたしの心臓、壊れるかもしれない。


落ち着きなさい。


大人しくしてちょうだい。


ダークグレー色のスーツが、銀色に輝いて見える。


健ちゃん、少し、痩せた。


両手をポケットに突っ込んだまま、きらきら光る水面を見つめるその妙に色気のある横顔と、紳士的な立ち姿が、あまりにもスマートで。


絵画でも見ているようで。


静かにしていなければならない気がしてならない。


ゆらゆら揺れる水面に落ちる健ちゃんの視線は、夕凪の頃、動きを止める波のように静かなものだった。


水面をするんと滑るように、水平線の向こうからひんやりとした風が流れ着く。


わたしは、なびいた髪の毛をそっと手で押えた。


次の瞬間だった。


押し寄せる灰色の雲を見て、帰ろう、と思ったのか、夕日に背を向けてうつむき加減の健ちゃんが踵を返して、こちらに歩いて来た。


まずい。


わたしは、大きな息を飲み込んだ。


不思議なものだ。


今の今まで、気持ちを伝えると意気込んでいたくせに、いざとなるとわたしの決意などころりと変わってしまったのだ。


だめだ。


やっぱり、会わないほうがいい。


会わずに、何も伝えずに、このまま東京へ帰るほうがいい。


彼に気付かれぬうちに引き返そうと思った。


だけど、これは神様の悪戯なのか、それとも、神様が決意の弱いわたしを許さなかったのか。


足が、蟻地獄にでも捕まってしまったかのように、動いてくれないのだ。


うつむいたまま、波打ち際に沿うように、健ちゃんが向かって来る。


まずい。


会ってはいけない。


ここから、立ち去らなくては……。


頭では理解しているのに、体が動いてくれなかった。


ふと、健ちゃんが立ち止まる。


ゆっくり、その顔が上がる。


健ちゃんがわたしに気付いて、一瞬、微かに目を大きくしたような気がした。


輝きを失った黒曜石のような瞳が、くるん、と動いた。


健ちゃんと目が合った。