恋時雨~恋、ときどき、涙~

きっと、わたしに何か話しかけたのだろう。


だけど、返事がないので、不思議に思ったのだとなんとなく分かる。


わたし、耳が聴こえません、と耳を指さして右手を振ると、彼ははっとした顔になった。


そして、満席の会場をさらりと見渡して、わたしに視線を戻した。


「お席まで、ご案内いたしましょうか」


わたしは、彼の唇の動きを読み取り、首を振った。


わたしが、席が分からなくて困っていると勘違いしているようだ。


「え……しかし、間もなく、新郎新婦が登場致しますので、お席に」


ああ、もう、じれったい。


違います。


わたしは、行きたい所があるのです。


分かって欲しいのに、そこを退いて欲しいのに、メモ帳もボールペンも、スマホも、幸に預けて来てしまった。


仕方ない。


わたしは、ウエイターさんに両手を突き出した。


〈通して下さい〉


「え?」


〈通して下さい。わたし、行かなきゃならない〉


「あ……手話、ですよね……すみません、分からなくて」


困った顔で、彼が肩をすくめる。


わたしは小さく笑って、だけど、手話を押し通した。


〈もう、遅いことは分かっています。でも、それでも、伝えたいことがあるから。わたし、返事をしないと〉


「あの」


〈裏の、浜へ行きたい。ここを、通して下さい〉


「あの、すみません」


べらべらとしゃべり倒すように止まらないわたしの両手をそっと止めて、


「あなたが何を言いたいのか、わかりません」


とにっこり笑って、


「だけど、なんとなく、分かります。頑張って」


そう言って、どうぞ、と道を開けてくれた。


〈ありがとう〉


わたしはぺこりと頭を下げた。


彼が「ありがとう」の手話を理解したのかしていないのかは、定かではない。