恋時雨~恋、ときどき、涙~

このメッセージカードを握りしめてアパートを飛び出し、駅に向かって走る彼の姿。


わたしを追いかけて来てくれていた健ちゃんの姿を想像すると、苦しくて、切なくて、息をすることさえ苦痛だった。


わたしは、見えないパンドラの箱を抱きしめた。


ごめんなさい。


ごめんなさい、健ちゃん。


分かっていたはずなのに。


どうせ、初めから、無理だったのだ。


忘れることなんて、最初からできなかったはずなのに。


わたしは、店長に深く頭を下げた。


〈行けません。一緒に、北海道には、行けません〉


わたしは、無意識の中、震える両手を必死に動かしていた。


〈わたし、今でも、彼の事が大好きです。だから、北海道には、行けません〉


「参ったな。何て言ってるのか、さっぱり分からないな」


と店長は困った顔をして、まあいい、と笑った。


純粋無垢で、清潔な、店長らしい微笑みだった。


「6月に入って、整理がつき次第、北海道に渡るよ。もちろん、ひとりでね」


あと半月、デザートの担当よろしく。


そう言って、店長はすっきりした顔で立ち上がった。


「帰るよ。明日も早い。それに、雨も上がったみたいだし」


ハッとして、窓の外に視線を飛ばす。


さっきまで暗かった空が初夏の西日で明るくなっていた。


日が暮れ始めた夕空に、白いおぼろ月が浮かんでいる。


「じゃあ、明日。キッチン・タケハナで」


店長が帰って行ったあと、わたしは深い深い深呼吸をした。


ベッドを出て机に移動し、デスクスタンドをつける。


震える両手で、静かに、メッセージカードを開いた。


ひとつぶ、ふたつぶ、みーつぶ、よっつぶ。


メッセージカードに落ちた透明な滴が弾けた時、自分が泣いていることに初めて気づいた。


いつつ、むっつ、ななつ、やっつ。


メッセージカードが、涙でふにゃりとふやけていた。