恋時雨~恋、ときどき、涙~

料理に誠実で真っ直ぐで、とても正直な人だ。


「親がいないんだ」


店長は幼い頃に不慮の事故で両親を失い、唯一の身内であるおばあさんに育ててもらったのだそうだ。


「ばあさんには、本当に感謝してる。寝る間を惜しんで働いて、おれを育ててくれた」


そんな悲しい過去のせいで、上手に笑う事ができなくなったのだそうだ。


「だから、別に、怒ってるわけじゃない。嫌な思いをさせていたらすまない」


18歳でイタリアに留学をして、レストランで修業を積み、24歳で日本に戻ってこの店を開いたという。


「手抜きだけはしたくない」


店長は、料理に、何よりも自身に厳しい真面目な人だった。


キッチン・タケハナで働くようになって、わたしの日常はずいぶんと変わった。


悶々としていた毎日が嘘だったかのように、とても充実し始めたのだ。


わたしは、ますます料理が大好きになった。


店長と同じ空間で、夢中になって料理をしていると、心が凪いだ波のように穏やかになるのだ。


生まれ育った、あの海辺の町のこと。


大切な人たちのこと。


健ちゃんのこと。


忘れる事はできなかったけれど、今までのように深刻に考える事が少なくなっていった。


そして、思い出さないように、毎日を忙しくした。


春になったらうちも東京に行く、と幸は言っていたけれど。


ドラマや映画みたいに、実際に街中でばったり出くわすことなどなかった。


これでいいのだと思った。


本当にもう、真っ新な気持ちで前に進むことができる。


そんな気がしていた。


いろいろなものが少しずつ、長い長い歳月をかけて変わって行く。


わたしたち人間は、子供から大人になる。


その中で数えきれないほどの出逢いと別れを繰り返す。


たくさんの経験を重ねて、泣いて笑って、成長して行く。


嬉しかった事も辛かった事も、いつしかそれが過去という時間に変わり、心に降り積もって行く。


健ちゃんとの事は、わたしの大切な宝物だ。


それもいつしかキラキラ輝くものになって、わたしの中で一生残って行くのだ。