恋時雨~恋、ときどき、涙~

ここは建物がぎゅうぎゅう詰めの街で、野原も海も見えないけれど。


とても、きれいな街だ。


ベランダから下を見下ろすと、登校して行く学生や出勤して行く社会人がせかせかと先を急いでいるのが見える。


朝日を受けて、輝く街路樹の若葉。


見上げれば、初夏の青空が広がっている。


今日も、街が忙しく動き出す。


わたしは夢だった栄養士を諦め、短大を退学した。


そして、両親の側で、東京で暮らす道を選んだ。


俗にいう「ぷうたろう」にはなりたくなかったので、毎日毎日、何件ものお店に足を運んで面接を試みた。


「えっ、君、耳が聞こえないの?」


けれど、聴力障害者のわたしを受け入れてくれる所は、そう簡単には見つからなかった。


「いや……困ったなあ。うちは接客の仕事だから。申し訳ないけれど」


ただでさえ耳が聞こえない、しゃべれないのに、資格ひとつ持っていない。


そんなわたしを社会が簡単に受け入れるはずがなかった。


だけど、そんな時に意外なめぐり合わせがあった。


「真央。落ち込んだ時は、美味しい物を食べるに限る。ね、行こう」


きっかけは、お母さんが言い出した事だった。


「嫌な事なんて忘れちゃうくらい、美味しいんだから。だまされたと思ってついて来なさい」


そこは、小さな空間だった。


4人しか座れない狭いカウンター席と、2つのテーブル席。


あとは、丸見えの厨房。


キャンドルライト並のぼんやりとした、でも、暖かな明りを放つ小さなシャンデリア。


白と黒のテーブルとチェアーと店内。


【キッチン・タケハナ】


そこは、小さな洋食屋さんだった。


キッチン・タケハナはお母さんが通っている大学病院のほど近くにあった。


定期検査の帰りに、お母さんが必ず立ち寄るという行きつけの店だった。


「店長さん、こんにちは」


「ああ、武内さん。いらっしゃいませ」


そこにはまだ20代半ばほどの若い男性が居て、たったひとりで切り盛りしているようだった。


お客さんは、わたしたち以外はいなかった。