恋時雨~恋、ときどき、涙~

痛い。


なんて強烈な痛みなのだろう。


肩で呼吸をする健ちゃん越しに、固まり続ける大家さんが見える。


「それに、無理して忘れようとも思わねんけ」


後悔してないからな、と健ちゃんが小さく微笑んだ。


その大きな両手に、朝日が集まる。


「おれと出逢ったこと。ふたりで恋をしたこと。一緒に暮らしたことも」


健ちゃんが、わたしを指して笑う。


「真央は、後悔してんのか?」


そんなこと、答えはひとつに決まっている。


わたしは首をふるふると振った。


〈してない〉


どれもこれも、ひとつも、後悔なんてしていない。


〈後悔、してない〉


この恋は、奇跡のようなものだった。


まさか、耳に障害を持つわたしが誰かを好きになって、その恋が成就するなんて、もう奇跡のようなものだった。


健ちゃんに出逢えたこと自体が、もう、奇跡だった。


だから。


〈これからも、後悔はしません〉


「それなら、良かった……安心した」


少しの沈黙のあと、健ちゃんは大きな口で笑った。


「ほら、もう行け。本当に乗り遅れるぞ」


わたしは頷いた。


でも、どうしても、足が動いてくれない。


たたずむわたしに、健ちゃんは困ったように笑って、


「行けって。早く行け」


でも、次の瞬間、険しい顔つきになった。


まるで、怒っているような表情だった。


「行けって言ってるんけ!」


敵を威嚇して追い払おうとする、野生のライオンみたいだ。


八重歯が、鋭い牙に見えるほどだった。


そんな彼を見たのは初めてで、わたしは一歩後ずさりした。