恋時雨~恋、ときどき、涙~

数メートル先、朝日に照らされるアパートの前で両手を動かす健ちゃんは、どこか悲しげで、どこか苦しそうだった。


「ただ……息がつまるんけ。だんけ、外に出て来ただけだ」


何やってるんだ、と健ちゃんは怒鳴るように手話を続けた。


「いつまでもそんなとこに居て、何やってるんけな! 早く行けよ。時間、間に合わなくなるぞ」


そんなこと言われなくても、分かってる。


……分かってる。


わたしは健ちゃんを睨んだ。


〈そっちこそ!〉


奥歯を噛んで、彼を指さす。


〈こんな事してる暇があったら、早く準備すればいい。仕事に遅れても知らないから!〉


なにー! 、と健ちゃんが一歩こちらに詰め寄って来た。


「真央に、おれの気持ちが分かんのか?」


知らない。


わたしはふるふると首を振った。


〈わたしは健ちゃんじゃないから、健ちゃんの気持ちを知りたくても、分からない〉


知りたいけど、できない。


〈健ちゃんだって、わたしの気持ちなんてわからないくせに。他人の本当の気持ちなんてわからない〉


だろうな、と健ちゃんは少し呆れたように笑った。


「真央、あのな……あの部屋は息が詰まるんけ」


健ちゃんがアパートを指さした。


「振り向くといつもある頑固な女の姿がなくて。探したけど、どこにも居なくて……息が詰まるんけ」


次の瞬間、わたしの胸はびっくっりするほどいっぱいになった。


「真央、は……」


と健ちゃんが、わたしを指さして肩をすくめた。


「おれの、酸素だったから」


右手を開いて、胸元でゆっくりと円を描く。


「大切な大切な、酸素だったんけなあ」


音なんて無くて静かで、でも、そこに居るのが当たり前で。


真央が居る空間はとても静かで、息をするのがとても楽で。


真央がそこに居ることが当たり前になっていて。


だから、と健ちゃんは手を動かし続けた。