恋時雨~恋、ときどき、涙~

振り返ったりするから、いけないんだ。


もう、その部屋を振り返ってはいけないのだ。


あの、あたたかい手を離したのは、わたしなのだから。


本当に、さようなら。


健ちゃん。


二階のドアを見つめる。


さようなら。


優しすぎた想い出たちに別れを告げて、わたしはアパートに背中を向けた。


目の奥がじんわりと熱くなり、何かがあふれ出ようとするのを必死に抑えながら、わたしは歩き出した。


車二台分先に、大きな楓の木が立っている。


葉は青く、瑞々しい輝きを放っている。


そうだ。


あの楓の木まで行ったら、走ろう。


振り返らずに、一気に走り出そう。


そして、そのまま一目散に、大通りに出てしまおう。


何かを目印にでもしなければ、どうしても、前に進めそうになかった。


決心が鈍ってしまいそうだ。


わたしは、足早に楓の木を目指した。


その大きな楓の木の下に差し掛かり、走り出そうとアスファルトを蹴ろうとしたその一瞬だった。


わあっ。


まるで、竜巻のように、突風が前方から吹き抜けた。


わたしはとっさに目をつむり、風がおさまるのを待った。


息ができないほどの風だった。


雨の季節を感じさせる少し湿った、でも、さわやかに澄んだ風。


そっと目を開けて上を見ると、頭上で新緑の葉が体をこすりつけ合うように大きく揺れていた。


枝葉の隙間から、新鮮な朝日が雨のように降り注いで、わたしに降ってくる。


この木漏れ日が、本当の雨だったらいいのに。