恋時雨~恋、ときどき、涙~

彼を見送った後、わたしは8時半すぎに部屋を出る。


だけど、今日からはそんな日常さえなくなる。


「気を付けて、行っといで」


うん、と頷いて、わたしは大家さんの肩を叩いた。


「どうしたかね」


わたしは小さく笑って、小さく会釈をした。


〈お世話になりました〉


わたしの両手を見て、大家さんは不思議そうに首を傾げた。


「何だね、それは。じじいには難しくてな。分からないよ」


いいの、分からなくても。


手話なんて、分からないほうがいい。


小さく手を振って微笑むと、


「はいはい。行ってらっしゃい」


大家さんはにこにこしながら、アパートの前をいつものように掃除し始めた。


さようなら、大家さん。


毎朝の掃除もいいけれど、たまには休んでね。


もう、お歳なのだから。


短い間だったけれど、こんなわたしに親切にしてくれて、ありがとうございました。


……ありがとう、ございました。


まがった腰をよいしょと起こして掃除するその背中に深々と礼をして、顔を上げた。


不意に、二階のドアが視界に入る。


さっきまで、わたしが居た、あの部屋。


健ちゃんと過ごした、部屋。


泣きそうになった。


少しだけ、期待していたから、悲しくなった。


その部屋のドアが開いて、健ちゃんが飛び出してきて、わたしを追いかけて来て、引き止めてくれるかもしれない。


そんな期待を、わたしはしていた。


でも、そんな気配は全くなく、ドアは閉まったままだ。


あるわけないか。


そんな、ドラマみたいなこと、あるわけがない。


わたしは、自分に呆れて笑うしかなかった。