恋時雨~恋、ときどき、涙~

「あの日はアパートに帰っても、朝目が覚めても、真央は居なかった」


それで、初めて気付いた、と健ちゃんは小さく笑って肩をすくめた。


〈何に?〉


健ちゃんが、自分を指差した。


「おれには、真央が必要だってこと。真央が居ないと、全然、楽しくないこと。幸せじゃないこと」


気付いたんけ、と健ちゃんがうつむき加減になった。


桜の花びらが一枚、わたしの前髪にかすりながら地面に舞い降りた。


健ちゃんが微笑んだ。


「だんけ、もう、のんきに毎日を過ごすのはやめることにしたんけ」


あのアパートを選んだのは日当たりが良くて、海が見えるベランダが付いていたから。


おれたちが出逢った、岬咲海岸が見えるんけ。


ひとつだけ、使ってない部屋があるだろ?


「なんであの部屋だけがらんとしてて、使わないままなのか、教えてやろうか」


確かに、わたしは不思議に思っていた。


今は健ちゃんが寝るためだけに使っているけれど、家具はひとつも置かれていないし、がらんとしている。


あの、日当たりのいい部屋。


〈教えて〉


頷いて、わたしは健ちゃんの両手を見つめた。


「ようし。じゃあ、教えてやるんけ」


健ちゃんの笑顔には、たくさんのイタズラが隠れていた。


「まず、この部屋は置いといて」


そう言って、健ちゃんは突然、


「ここはキッチン。毎日、真央がうまいご飯を作る場所」


と桜の木の下を動き回り出した。


まるで見取り図の中を走り回るように。