恋時雨~恋、ときどき、涙~

でも、手元にメモ帳もボールペンもなかったので、わたしはまた〈ごめんなさい〉と手話をして肩をすくめた。


「あなた、見かけによらず、おっちょこちょいなんだね」


もう、と呆れた顔をして、果江さんはキッチンへ入ってくるなりお鍋の蓋を開けた。


「なに作ってたの?」


いい匂いね、と果江さんがお鍋の中を覗き込んだ。


その間に、わたしはリビングからメモ帳とボールペンを持ってきて、書いた。


【メバルのあまからの煮物】


メモ帳を見た果江さんは、へえ、と言ったあと、今度は味見がしたいと言い出した。


わたしは少しだけ小皿に煮汁をすくって、果江さんに差し出した。


「おいしいじゃない。あなた、料理できるんだ。ちょっと、見直した」


【ありがとう】


メモ帳を見て微笑んだ果江さんに、わたしの心臓は微かに飛び跳ねた。


なんて、優しく笑う人なのだろう。


わたしは、果江さんの美しい笑顔に思わず見とれてしまった。


不思議な気持ちだった。


前回、このアパートで会った時の果江さんは、優しさの欠片も感じられなかった。


むしろ、怖いくらいだった。


なのに、今日はぜんぜん違う。


この優しい顔をする果江さんが、本当の果江さんなのではないだろうか。