恋時雨~恋、ときどき、涙~

健ちゃんが切なげに目を細めた。


〈わたし、明日、東京へ戻る〉


またこの町を出て、東京へ。


できる事なら、このまま、健ちゃんと居たい。


東京へ戻らずに、この町で、健ちゃんと。


でも。


〈帰ります〉


今のわたしは、帰らなければならない。


東京に、大切な父と母が居て、わたしの帰りを待っているのだ。


幼い頃から、わたしの障害に共に立ち向かってくれた、わたしを支え続けてくれたひとたちが。


もし、今、わたしが、このままこの町で暮らしますと連絡をすれば、おそらく許してくれるのだと思う。


だけど、わたしはもう子供じゃない。


分かるのだ。


そんな事をしても、ふたりが喜んではくれないことくらい、分かっている。


まるで半ば駆け落ちのような事をしても、喜んではくれないのだろう。


〈このまま、健ちゃんと居るわけにはいかないの。明日、東京へ、戻ります〉


もう、子供じゃない。


ふたりに、くだらない心配などかけてはいられないのだ。


〈健ちゃんと一緒に居たい。離れたくない。だけど、お母さんとお父さんが、わたしを待っている。心配かけたくないの。だから、帰ります〉


そうか、と納得したように頷いて、今度は何の躊躇もなく健ちゃんはわたしの頭を抱き寄せ、髪の毛を掻き上げると、囁くかのようにわたしの耳にキスをした。


そっと、触れたのか触れていないのか分からないような、キスだった。


何で……。


わたしはとっさに体を離した。


〈いいの? わたし、今の生活を捨てる事ができないと言っているのに……いいの?〉


それでも、好きでいてもいいと言うの?


《いいも悪いも、仕方のない事だ》


お互い様だよ、と、健ちゃんは続けた。


《おれだって、この町での生活を投げ出して、今すぐ東京へ行くなんて事はできない》


でも、と健ちゃんが手のひらをひらりと返す手話をした。


《でも、もう、離したくないから。二度も、きみを見失う事だけはしたくないから》


〈でも、この町と東京は、遠すぎるよ。無理、だよ〉


今、そのキスを受けることが、わたしはできない。


〈健ちゃんと一緒に居たいのに〉


奥歯を噛んでうつむいたわたしの顔の前を、大きな手がふわりと横切る。


《離れていたら、全部、だめか? 離れたら、いずれこの気持ちも離れると、そう言いたいのか?》


わたしは小さく頷いた。


《おれは、そうは思わない。だって、そうだろ? この3年、おれたちは離れていたけど、気持ちは離れていなかった。違うのか?》


違うのか?、と念を押すように、健ちゃんが聞いてきた。


この美岬海岸に、夜が訪れようとしている。


また少し、暗くなった。


頷きもせず、首を振るわけでもないわたしの顔を大きな手が扇ぐ。