恋時雨~恋、ときどき、涙~

〈違うの?〉


わたしはぶつかるほどの勢いで、のっぺりと立ち尽くしている健ちゃんに飛び付いた。


潤んだ真っ黒な瞳が、ゆっくりとわたしに落ちて来る。


〈助けて〉


誰か、助けて下さい。


〈苦しい〉


とてつもなく、苦しい。


苦しくて、苦しくて、ただ、切なくて。


もうじき、息ができなくなって、気を失うかもしれない。


胸が張り裂けてしまいそうだ。


心がぺしゃんこにつぶれてしまいそうだ。


〈苦しい〉


たくさんの想いが言葉になって、目の奥でぐるぐる回っている。


伝えたい想いはこの両手からあふれるほどあるのに。


どうして、結局はこの一言しか出てこないのだろう。


好きだ。


〈あなたの事が好きで、好きで……苦しい〉


理由なんてない。


わたしはただとにかく、この人が好きで好きでたまらないのだ。


例えば。


〈に、し、の、け、ん、た〉


この人が極悪非道の犯罪者になろうとも、無一文のホームレスになろうとも、お金を全て賭け事に注ぎ込むどうしようもないギャンブラーになろうとも。


わたしはおそらく、この人が好きで好きでたまらないのではないかと思う。


例え、この先一生、声が出ないとしても。


〈好きで好きで、たまりません〉


もう、二度とあの笑顔を見せてはくれなくとも。


〈好きで好きで……好きで、苦しい〉


助けてください、


そう手話をして、わたしは健ちゃんの胸元のワイシャツをたぐり寄せた。


誰かを好きになる。


それは、幸せなことばかりだと思っていた。


でも。


誰かを好きになる。


それは、こんな苦しさもあったんだね。


それよりも。


こんなに苦しくなるほど、人は人を好きになれるものだったんだね。


体がばらばらになってしまいそうなほど苦しい好きが、あるんだね。


ワイシャツを掴んで歯を食いしばっていると、ふと、手の甲に冷たい感触があった。


はっと顔を上げると、黒い視線がわたしを包み込むように降っていた。


健ちゃんの瞳が、わたしを食い入るように見つめている。


わたしたちはお互いにお互いの心を探るように、見つめ合った。


あれほどまでに燦然と降り注いでいたはずの夕日が、その力を失い始めていた。


日が暮れるのも、時間の問題だろう。