恋時雨~恋、ときどき、涙~

《でも、だめだった。きみでなければ、だめだった》


わたしも、だめだった。


健ちゃんでなければ、だめだった。


《だから、もう一度、きみにこの想いを伝えようと決心をしたけれど》


と震えながら動く彼の両手が力尽きたようにだらりと下がり、健ちゃんは唇を震わせながらうつむいてしまった。


ぽつ、ぽつ。


砂の上に、健ちゃんの涙が落ちる。


わたしは、健ちゃんの手を掴んだ。


健ちゃんが顔を上げる。


そして、うわっと吐き出すように手話をした。


《きみじゃなければだめだと、他の誰かでは無理なのだと、やっと本当の気持ちを言えると思った時。その時、きみはもう、居なかった》


アパートの中を隅から隅まで探したけれど、きみはどこにも居なくて、と健ちゃんが続けた。


《きみとの幸せだった時の記憶だけが、部屋中に温かいまま残っているだけだった》


それが何より苦しかった、と。


それよりも苦しい事はなかった、と。


《だから、声が出なくなった事は、たいした事じゃない》


と健ちゃんは苦しそうに表情を歪めて、唇がうっ血するほど強く噛んだ。


《心配、するな。おれは苦しくない》


と健ちゃんが首を傾げる。


《何だよ……苦しくないって、言ってるだろ》


分かった。


分かったから、とわたしは確かに頷いているのに、それでも健ちゃんは《苦しくないって》としつこいほどに繰り返す。


そして、


《何で……そんな顔しているんだよ》


とわたしの頬に触れた。


そんな顔……?


〈わたし、今、どんな顔をしているの?〉


分からないのか、と健ちゃんがあきれ顔をする。


《呼吸困難にでもなりそうな、苦しい顔》


……そう。


そうでしょ。


やっぱりね。


だって、わたし。


〈苦しいもの〉


え、と健ちゃんがわずかに目を見開いた。


〈わたし、ものすごく、苦しい〉


と、胸を押え込んでみる。


痛くて、痛くて、苦しくて。


このまま本当に、呼吸困難になってしまうんじゃないかと不安になるほど。


〈苦しい〉


ぐるぐる、ぐるぐる。


体中を縄できつくきつく締め付けられている気分だ。


この痛みは、後悔の他に何でもなかった。


〈健ちゃんは苦しくないかもしれない。でも、わたしは、苦しいよ〉


苦しくて、苦しくて、どうにかなってしまいそうだ。


〈ずっと、苦しかったよ〉


でも。


〈今は、もっともっと、苦しいよ〉


今にも喉がつぶれそうなくらい。


〈苦しいよ〉


体が、ばらばらになってしまいそうだ。