(…まさか、それ以外にもなにか、在るのか)
そうしてふと思いあたる。
『渡したくないと、思ってしまった』
鐘鬼は倫子に、未だ焦がれているのだろうか。
あの長い黒髪に絡み取られた傷だらけの裸体が脳裏に浮かぶ。
『…タチバナ』
思い至ったのは、二人の関係性だ。
口にはしたくないと思いつつ、気付けば真醍を見ていた。
「…その鐘鬼はどこなの?」
己が口走った言葉の意図に、真醍が気付かぬようにと、願いながら。
「橘の部屋じゃねーの?雲雀はお前に任せた、とか俺に言ってたし」
暢気に答える真醍をよそに、カップを置いて食堂を後にした。
こちらの挙動に無駄に反応する生徒達に神経を逆撫でされつつ、いつもの歩調で回廊に出る。
「おはようございます、雲雀様」
回廊に出た瞬間、夢にも見なかった人物がそこにいた。
銀糸をさやさやと揺らして現れたアナセスは、やはり今日も美しく輝いていた。
人外にも思える、歪ではない整えられた完璧さ。
(…橘とは大違いだ)
「なにか用」
(これが僕の婚約者だなんて、笑える)
ここまで解(ほつ)れのない者を相手に子を成すなど、そんな気すら湧かなかった。
「大した用では。…ただ、先日のお詫びを」
アナセスはあくまでアナセスとしての姿勢を崩す気はないらしい。
それだけは誉められた。
彼女の存在は、在るだけで倫子に濃い影を落とす。
勿論、アナセスが悪いわけではないと、雲雀もわかってはいるのだが。
「…ワカメはどうしてる?」
ロビンには、あれ以来、会っていなかった。
真鶸も、あの日から少しばかり様子がおかしい。
(…波紋が広がるばかりだ)
―――橘。
君がいなくなっただけで。


