音もなく近付いてきた鐘鬼の指が、首筋に触れた。
ぬるり、滑らかな皮膚が、首に飛んだ滴を伝うように肌を撫でた。
「―――…、」
その粘着質な触れ方に、ゾッとして息を飲む。
古い記憶が、まざまざと鮮明に蘇った。
『俺がお前を奪ったら、修羅はどんな顔をするだろう―――』
ただ声もなく、双眸同士が鏡越しに見つめ合う。
かつて凶悪に吐き出した面影はもう見えない。
それでも。
「…意識するのは、畏れているからだ」
思考を読み取られたのか。
鐘鬼が先程の不穏を潜めて、苦笑してタオルを寄越してきた。
それを素直に受け取り、鏡越しにその端正な顔を見る。
「…なにを、畏れてるって?」
答えが欲しかった。
だからこそ言葉にして欲しくて、真相をわざわざ口にする。
「お前は、雲雀以外の男に奪われるのを、畏れている」
自分自身を。
(奪われる権利もないくせに)
「…だから、俺を警戒してる」
くすり。笑われた。
穏やかな空気。
清浄な、精神。
「…あんたやっぱり、そっちのほうがきれいだよ」
―――鐘鬼。
人類に際限ない怨みを抱いた神は今や、穏やかな凪のように。
既にあの殺伐とした気配はない。
―――消失であれ、と身勝手ながら願う。
血に濡れながらも、その身に余白は確かに在った。
(私とは違って、取り返しがつく境目)
こいつは、己の余白を取り戻せたのだ。
「…お前が言ったからな」
鐘鬼がやはり温厚な眼差しを以て言う。
感謝されているのだろうか―――する必要なんてないのに。
『あんたにはまだ、余白があるよ』
それは傲慢に過ぎなかった。
『―――もう、汚すな』
余白のない第二の「私」を造りたくないという、ただのエゴ。
そうとわかっていながら、鐘鬼は少しだけ微笑んでくれるから。
「また、一緒にたくあんを食うか」
「…ねこまんまも付けてね」
「相変わらず偏った奴だ」
「知ってる」
だからほら、私もこんなふうに笑える。
雲雀によく似た彼の前で、まだ笑うことができる。
だから、まだ、大丈夫だ。


