あたしは、否定はしなかった。
今しなきゃ、もう後はない。
こんな状況に立たされているから、あたしはただ頷いた。
だけど、そんなに遠くには行けないと恭平に言って、まずはあたしが住んでいたマンションへと向かった。
バス停から、徒歩5分たらずのところ。
7階建ての502号室。
エレベーターに乗って5階まで来ると、幼いころのあたしが走りまわっているような錯覚に陥った。
「――ここか」
「うん」
502号室の前で、恭平は5階全体を見渡した。
ここで、いろんな経験をして来た。
友達とうちの前に集まって、密会を開いたりもしたっけ。
「懐かしいだろ」
「うん。笑ってる自分しか、浮かんでこない。
あ、ここで走りまわってお母さんに怒られたことはあったけど」
「ハハっ、おまえらしい」
「楽しかったよ。
どんなに怒られてもさ、晩御飯の時にはみんな笑顔に戻るんだ。
お父さんもお母さんも笑って。会話を楽しんだ」
「そうか」
「でも、なんだか、ちょっと寂しいな……」
あたしは一瞬目を伏せて、ドアの横に記されている表札を指差した。
そこには、もう『新森』ではなく、別の名字が記されていた。
当り前のことだけど、もう、あたしの家じゃなくなったんだって思うと、胸が締め付けられた。



