乗り慣れないタクシーのドアポケットを見つめながら、
思い浮かぶのは三人の人物だ。

テディベアを抱えて笑う父と、顔を赤くして拳を振り下ろす男、そして鍵を落としてため息をついたサラリーマン。

どの人間も今この世にいないだなんて、私には理解できなかった。


『1260円です。』




駅は、パトカーや救急車などの車で混雑していた。


交番の扉をあけると、毛布に包まれ子供のように身を小さくして震えている母親が目にとびこんできた。



『お母さ‥』
『‥う。』

呼び掛けるのをさえぎるように、彼女は口をおさえてトイレに駆け込んだ。


言葉を失って呆然としていると、警官が椅子に座るように勧めてきたのでその通りにする。

パイプ椅子が、軋んで音をたてる。



『あの人‥目の前で見ちゃったみたいなんだよね‥。』

『‥‥‥‥‥‥。』



『娘さんも可哀相に‥、大丈夫?』

『‥‥‥‥‥はい。』


“大丈夫”という言葉の意味をこいつはわかっているのか、と心の中で悪態をつきつつ返事をする。


『偉いね、あんた。
これから簡単な質問に答えてもらうけど詳しくは明日にするから、今日のところはお母さんについててあげてな。家までは車、出させるから。』

『‥‥‥‥‥‥はい。』



戻ってきた母からかかっていた毛布が滑り落ちる。


血だらけの洋服が現れる。


そこに父の影が重なる。






——あれは誰の血だ


——このおっさん達は何


——ここはどこだ


——なんでこの人泣いてんだ




思わず母の手をとり、辺りを見渡す。




今この現実を認めるくらいなら、
何もかもわからないくらい
馬鹿になってしまいたい。