放課後、キス、しませんか

 水曜日の放課後、紗季は昇降口で、空の色を見上げていた。

 雲が、うすく延びている。雨の予報は出ていない。この前のようなことは、今日は起きなさそうだ。

「……帰るの?」

 靴箱の陰から、直人が出てくる。

「うん。三浦も?」

「うん」

 それで、二人とも、同じ方向に歩き出した。

 言葉は、もういらなかった。

 校門を出て、紗季は、少しだけ迷った。

 ノートの端の、メモ。いつもなら、話題をことさら探すことはしない。でも今日は、話したいことが、すでに一つあった。

「あのさ、校門の横に、猫いるでしょ」

「いるね」

 こともなげに返ってきた。紗季は、少しだけ拍子抜けした。

「……知ってるの?」

「毎朝、見るから。足だけ白いやつでしょ」

「そう! それ。靴下はいてるみたいな」
紗季の声が、思ったより大きくなった。

 直人は、前を向いたまま、少しだけ口元を緩めた。

「俺もそれ、毎朝、見てた」

「え。でも、朝、三浦と会ったことないよね」

「会ってない。俺のときは、小坂は、たぶん、もう学校に着いてる」

 さらっと、彼はそう言った。

紗季は、一拍遅れて気づいた。

「……私が早いの、知ってるんだ」

「教室に入るとき、いつもいるから」

「そうなんだ」

 朝の教室の、窓側の席。そこに座っている自分を、彼は、毎日見ているらしい。

 ──なんていうのは、紗季の思いすぎかもしれない。

 この話は、これ以上、しない。紗季は、共通の猫の話に戻った。

「名前、あるのかな」

「あると思う。でも、俺たちは知らない」

「明日、聞いてみようか。猫に」

「答えてくれると思う?」

「思わない」

「だよね」

 紗季は、笑った。

 宣言していたわけではなかったが、メモの一行目を、ここで使い切った。

 そのことを、紗季は、駅の直前でやっと自覚した。

 改札の前。

 帰りの人の流れが、少しだけ、二人を押している。

「じゃあ」

 直人が、いつものように手を上げた。

 紗季は、うなずきかけて、でも、直人がそのまま歩き出さないことに気づいた。

「……どうしたの?」

「いや。あの、さ、小坂」

 直人は、しばらく言葉を探しているように、改札の横の柱に目をやった。

 そして、少しだけ、目を上げる。

「また明日」

 紗季は、返事をするのを、忘れた。

 いつもは、「じゃあ」だった。この人との別れ際は、いつも、それだけだった。でも今日は、「また明日」。

「……うん。また明日」

 やっと、それだけ返す。

 直人は、それを確かめるように、もう一度だけうなずいて、改札を通っていった。

 紗季は、気づかなかった。

 改札を抜けた直人が、ホームに降りる階段の手前で、一度だけ、振り返ったことには。

 帰宅してからも、紗季は、その言葉を思い出していた。

 顔を洗うとき。夕ごはんを食べるとき。これは、お風呂の湯船に浸かりながら。

「紗季、何、にやにやしてるの」

 リビングで、母に言われた。

「してないよ」

「してるよ。さっきから、スマホも見ないで」

 紗季は、続きを言わずに、自分の部屋へ逃げた。
 
 ベッドに寝転んで、天井を見る。

 これは、ただの挨拶だ。自分もわかっている。「また明日」なんて、どこの誰でも言う。カナも、アイも、比較にならないくらい、よく言う。

 でも、あの人が言ったのは、初めてだった。

 明日。明日も、学校で会う。あたり前のことだ。それなのに、明日が、少しだけ楽しみになっている。

 紗季は、部屋の電気を消し、スマホを手に取った。

 アラームを、いつもより十分だけ、早くする。そして、スマホを、枝元ではなく、部屋の向こう側の机の上に置いた。

 これで、もう寝直せない。

 これは、なんのための十分なのか。紗季は、そこを、考えない。

 まだ、それを恋とは呼ばない。

 友達ができたのかもしれない。そう思うことにして、紗季は、布団を顔のところまで引き上げた。

「また明日」。

 静かな部屋の中で、紗季は、その言葉を、もう一度だけ、言ってみた。