放課後、キス、しませんか

 火曜日の昼休み、紗季は購買でメロンパンを買った。

 選んだ理由は、とくにない。強いて言えば、先週のあれのあとは、焼きそばパンに手を伸ばす勇気がなかった。

 教室に戻る途中、廊下の角で、後ろから声をかけられた。

「今日は、焼きそばパンじゃないんだ」

 振り向くと、直人が立っていた。手には、紙パックのコーヒー牛乳。

 紗季は、一秒だけ、何の話だかわからなかった。

「……え?」

「先週、麺がほとんどなかったって言ってたでしょ。今日は、買わなかったの?」

「あ。あんなの、食べるわけないじゃん」

 反射的に、強い声になった。でも直人は、あわてるでもなく、真面目な顔のまま言った。

「まだ怒ってるんだ」

 紗季は、笑ってしまった。

 怒ってないよ、と言い返す前に、笑いが先に出てしまった。だって、怒っている。少しだけ、本当に。

「怒ってるよ。一生、忘れないと思う」

「そうなんだ」

「そうなんだ。だから、今日はメロンパン」

「それは、賢いと思う」

 直人は、それだけ言うと、ストローを紙パックに差した。いつもの顔のまま、教室のほうへ歩いていく。

 紗季は、メロンパンの袋を抱えたまま、そこに立っていた。

 ──覚えてた。

 先週の、あのどうでもいい話を。カナとアイは、たぶん、もう覚えていない。紗季自身も、メロンパンを選んだとき、そこまでは考えなかった。

 でも直人は、買い物帰りの紙パックを持ったまま、その話を、ちゃんと持っていた。

 それだけで、先週のあの放課後が、二人だけの小さな話題になったような気がした。

 この日から、紗季は、ちょっとだけ変な癖がついた。

 授業中、ノートの端に、小さなメモを取る。

 国語の先生の、後ろ髪の寝癖。黒板を消すたびに、小さな毛がぴょんと跳ねる。

 校門の横にいる、町内会の猫。今朝も、同じ場所で、同じ顔でこちらを見ていた。

 駅の自販機のお釣り口に、毎朝、百円玉を探している男の子。

 どれも、誰かに話すほどのことじゃない。わかっている。だからこそ、メモにしておく。

 これは、一体何のためのメモなのだろう。
紗季は、頭を抱えて、しばらく考えた。

友達に話すため? いや、カナとアイには、
もっと盛り上がるネタを選んで話す。寝癖と猫と百円玉は、そこでは使えない。

 だとすれば、このメモは、誰のために?

 五限の終わり、チャイムが鳴ったとき。

 紗季は、ノートの端のメモを見返して、あることに気づいていた。

 一番下の行に、無意識のうちに、小さな字で書いていた。

「→三浦に」

 あ。

 紗季は、思わずノートを閉じた。その手で、筆箱から消しゴムを出し、開き直し、紙の端をこすり始める。

「紗季、どうしたの?」

「え。あ、とくに何も」

 カナが、不思議そうな顔をしている。紗季は笑顔を作り、消しゴムの手を止めた。

 消しゴムでこすった跡は、薄くて、でも、完全には消えなかった。

「→」の形が、ノートの上に、うっすら残っている。

 紗季は、そのうっすらした跡を、しばらく見ていた。

 話したいことを探す癖。それは、もう、ある。

 でも紗季は、その癖の名前を、まだつけない。つけたら、明日、直人にどう顔を合わせればいいかわからなくなる。

 まだ、いい。このままで。

 紗季は、消しゴムを筆箱に戻し、もう一度、ノートを閉じた。

 斜め後ろの席は、さっきから、とても静かだった。