放課後、キス、しませんか

 月曜日のホームルームで、席替えがあった。

 先生の持ってきた箱の中から、一人ずつくじを引く。教室中が、さわさわと落ち着かない空気になった。

 紗季の引いた紙には「窓側の列、後ろから二番目」と書かれていた。黒板からはちょうどいい距離だ。後ろの席より目立たなくて、前の席ほど緊張しない。

「やったー、紗季、窓側じゃん」

「いいな。うらやましい」

 カナとアイは、一番前と真ん中の列に分かれてしまった。「あとでこっち来てね」と手を振りあい、紗季は自分の机を、新しい場所へ運んでいく。

 机を置いて、椅子に座る。新しい席の窓からは、校庭の隠にある桐の木が見えた。この気持ちのいい視界を、しばらくは誰にも渡さない。そんなことを、ちょっとだけ思った。

 後ろで、椅子を引く音がした。

 斜め後ろに、誰かが座る気配。紗季は、振り向かなかった。振り向いて確かめるのは、何となく、しないほうがいい気がした。

 でも、わかっていた。

 足音のリズム。机にふれる方。ことんという小さな音のどれも、最近、よく聞く音になっている。

「……よろしく」

 聞こえたのは、思ったより低い、直人の声だった。

 紗季は、肩越しに少しだけ顔を向けた。

「うん、よろしく」

 それ以上は、何も言わなかった。紗季は前を向き直って、ノートを閉じた。先生が次の連絡事項を読み上げているのに、頭にはまったく入ってこなかった。

 三限の数学で、紗季は消しゴムを落とした。

 白い四角が、若干斜めに転がって、直人の席のあたりで止まった。

 あ、と思って手を伸ばす前に、後ろから腕が伸びてきた。紗季のシャープペンの横を通って、消しゴムを拾う。

「はい」

「ありがとう」

 渡されるとき、指先は触れなかった。消しゴムは、紗季の掌の真ん中に、そっと置かれた。

 それだけのことだった。

 でも紗季は、白い消しゴムを握ったまま、黒板の数式を写す場所を、一行、見失った。

 これまで、確かに直人は教室の隣ではなかった。距離でいえば、いつもと変わらない。斜め後ろ。黒板を見るとき、ちょっと首を向けただけで、目の端に入る位置。

 なのに、さっきまでより、ずっと近い。

 紗季は、素直にそう思った。

 休み時間。

 カナとアイが、「紗季ー、こっち来て」と手招きする。紗季は立ち上がり、「行く行く」と答えて歩きだした。

 そのとき、教室の真ん中あたりから、大きな笑い声があがった。

「やめろよ、もう、しつこいって!」

 男子たちが、何かのスマホゲームの画面を囲んでいる。その輪の真ん中に、直人がいた。

 直人は、笑っていた。

 声を出して、しかもかなり大きな声で。こめかみを押さえながら、肩だけではなく、身体をところどころまで折り曲げるように。

 紗季は、歩いていたところで足を止めた。

 あんな顔をするんだ。

 あの、声を出さない、肩だけの笑いは、紗季の前でしか見せないものだと思っていた。いや、思っていたのではなくて、メモを取っていたような気もする。言葉にする前のメモを。

 でも、違った。直人は、こういう笑いかたもできる。ここでは、誰かの一言に、素直に反応している。動かされている。

 そして紗季は、紗季だけの直人と、この直人を、うまく重ねられなかった。

 ここの直人は、いろいろな人と、いろいろな仕方で、仲良くしている。紗季だけに、特別に優しいわけではない。

 その事実に、紗季は、ちょっと安心した。
でも、安心したのと同じ量だけ、少しだけ、

 残念だった。

 残念。

 その言葉を、紗季はこれで二回目に思いついた。今度は、首を傾げなかった。ただ、耳の後ろが少しだけ、熱かった。

「紗季ー、早く、早く」

「あ、ごめんごめん」

 紗季は、カナとアイの輪に、笑顔で合流した。

 さっきの、直人の笑い声が、背中の後ろで、まだ小さく鳴っている。

 放課後。

 紗季は、教科書を鞄にしまいながら、背中の方向を気にしていた。

 斜め後ろ。直人は、もう席にいない。教室を見回して、紗季は苦笑いした。いないことに、すぐ気づいてしまった。

「紗季、帰る?」

「うん、帰る」

 立ち上がるとき、椅子が少しだけ、後ろの机に当たった。
ことん。

 小さな音だった。でも紗季は、その音が、しばらく耳に残っているような気がした。