放課後、キス、しませんか

 金曜日の放課後は、どこか浮ついた空気がする。

 教室の窓からは、部活の掛け声がときどき聞こえてくる。紗季は、カナとアイが手を振って教室を出ていくのを見送って、自分の鞄のファスナーを閉めた。

 今日は、二人ともミーティングだ。紗季は無理に時間を合わせる必要はなく、一人で帰る。それを、少しだけラクだと思ってしまったことに、自分でも少しだけ罪悪感があった。

 昇降口で靴を履きかえる。靴箱の陰から、もう一人分の足音が近づいてきた。

「……あ、小坂」

「あ、三浦」

 直人だった。もう靴を履いていて、つま先で地面をトンと叩いている。

「帰るの?」

「うん」

「じゃあ、駅まで、一緒に行こうか」

 言ったのは紗季のほうだった。言ってから、こんなにあっさり言えるものなんだと、

 自分の口に驚いた。

「うん」

 直人は、それだけ答えた。

 校門を出ると、空はきれいなオレンジ色に染まりかけていた。

 雨の日に一つの傘に入って歩いたことはある。でも、こうして何もさえぎらない晴れの日に、肩を並べて歩くのは、初めてだ。

 紗季は、すぐに話題を探し始めた。

 今日の英語の宿題。テストの結果。明日からの週末の予定。どれも、話すほどのことでもない気がして、口に出す前に消えていった。

 ということで、話題は、出てこなかった。
踏切の警報機が、遠くで鳴っている。

 コンビニの前を通ると、自動ドアが、誰もいないのに開いた。紗季の袖と直人の袖が、軽く擦れる音がした。

 自転車が、ベルを鳴らして追い越していく。

 紗季は、無意識にかばんの肩紐を握り直した。

「……三浦ってさ、沈黙、平気なの?」

 一度、間を置いてから言った。強引に紛らわせようとするより、そのほうが正直だと思ったからだ。

「何か、話さなきゃいけないの?」

 直人は、本当によくわからないという顔で聞き返した。

「いや、そういうわけじゃないけど」

「じゃあ、いいんじゃない」

 それだけだった。

 紗季は、口を開いたまま、しばらく歩いた。何か言い返そうとして、言うべき言葉が、最初からなかったことに気づいた。

「……そっか」

「うん」

 沈黙の中で、紗季はいろいろなものを見つけた。

 道路の端に咲いている、名前のわからない黄色い花。どこかの家から漂ってくる、温かそうな夕飯の匂い。一歩先を歩く直人の背中と、比べて少し遅れている自分の影。

 いや。遅れているのは、紗季だけではなかった。

 直人の歩幅が、いつの間にか、自分に合わせている。そう思ったところで、紗季は、起こったことを確かめるように、足元を見た。

 直人は、何も言わない。紗季も、何も言わない。

 二人の靴音が、少しずれて、やがてそろった。

 これまで、紗季にとって沈黙は、埋めるべき穴だった。誰かと並んでいるときに、話が途切れる。それは、自分が退屈な人間に見えるということだ。だから、笑って、スマホを見て、何かしら言った。

 でも今は、穴を埋めなくていい。

 そのことが、思ったより、ずっと楽だった。

 駅前のロータリーに着くと、改札の前は帰りの人で少し混んでいた。

「……じゃあ、ここで」

 直人が、手を上げる。いつもの「じゃあ」だ。

 紗季は、うなずいて、すぐに返事をしようとした。でも、うまく口が動かなかった。

「あのさ」

「うん?」

「……今日、静かで、楽だった」

 これでは、言い方が変だったかもしれない。

 紗季は急いで付け足した。

「あ、いや、比較とかではなくて」

「わかってるよ」

 直人は、あっさり言った。

「俺も、楽だった」

 紗季は、思わず直人の顔を見た。

 直人は、もう改札のほうを向いていた。いつもと同じ、表情の読めない横顔。でも、耳の先だけが、夕焼けのせいではない色に見えた。

「じゃあ」

「うん、じゃあ」

 改札を押されるように通っていく背中を、紗季は、今日もしばらく見ていた。

 ホームに電車が入ってくる音がして、紗季はやっと、自分も改札を通る。
空気が、さっきまでより少しだけ、あたたかかった。