放課後、キス、しませんか

 木曜日の昼休み、購買の前はいつものように人でごった返していた。

 紗季は、カナとアイに「先に教室戻ってて」と手を振り、人の間をすり抜けた。今日は弁当を作ってこなかった。朝、アラームを止めたまま寝直してしまったからだ。

 ガラスケースの中に、パンはもう数えるほどしか残っていなかった。紗季は、一番端に残っていた焼きそばパンを、迷わずに手に取った。

 最後の一個。

 その事実に、少しだけ得をした気分になった。

 教室に戻って、待っていた二人の前で袋を開ける。一口かじって、紗季は動きを止めた。

 パン。パン。パン。そして、パン。

 麺が、ほとんど入っていない。追加で一口、もう一口と食べ進めても、出てくるのはソースの味がするパンだけだった。

「えっ、ちょっと待って。これ、麺、ある?」

「どうしたの、紗季」

「焼きそばパンの、焼きそばが、ほとんどないんだけど」

 カナが、一拍間を置いて、吹き出した。

「あはは、ハズレじゃん」

「ハズレっていうかさ、詐欺でしょ」

「でも紗季、それでも食べてるし」

「食べるよ。お腹すいてるもん」

 そこで話は、まとまるというより、自然にこぼれ落ちた。

「あ、そういえばさ、昨日のカフェ、パンケーキやばかったよね」

「やばかった! 写真、まだ残ってるよ」

 アイとカナは、スマホをこちらに向けて、昨日のパンケーキの写真を見せ合っている。紗季も、「あ、これこれ」と身を乗り出した。
手の中には、麺のない焼きそばパンが、まだ半分残っていた。

 この話は、これで終わりだった。

 ということは、紗季にもわかっていた。笑ってもらえた。それで十分だ。パンの話なんて、そこで終わっていいはずだ。

 そう思いながら、紗季は、最後の一口を、少しだけ名残惜しい気持ちで飲み込んだ。

 放課後、紗季は日直の日誌を抱えて、職員室へ向かっていた。

 カナとアイは、部活のミーティングに行ってしまった。あとは日誌を出して帰るだけ。ここは一人だ。

 廊下の角を曲がると、前から歩いてきた人と、軽く肩が触れそうになった。

「……あ、ごめん」

「うん」

 三浦直人だった。片手に、提出用のノートをどさっと抱えている。英語の課題の回収係なのだと、紗季はクラスの当番表を思い出した。

「職員室、行くの?」

「うん。日誌を出しに」

「担任のところにも、これ出しに行くから、同じ方向だね」

 続いて歩き出す。高い窓から、夕方前の明るい光が廊下を斜めに切っている。二人の足音が、少しずれて重なった。

 沈黙。

 紗季は、話題を探しかけて、やめた。この人には、探さなくていい。昨日、そうなりかけた。

 その代わりに、口が勝手に開いた。

「今日の焼きそばパン、麺がほぼなかったんだけど」

「……焼きそばパンなのに?」

 直人が、こちらを見た。本当に不思議そうな顔だった。

「そうなの。パンのほうが多かった」

「それ、ただのパンじゃん」

「そうなんだよ。ただのパン。ソースの味だけする、ただのパン」

「それ、購買の最後の一個だった?」

「え。うん、そうだけど」

「みんな、避けてたんだね」

 紗季は、足を止めた。

 そして、吹き出した。

「そうか。それで最後まで残ってたんだ。うわ、気づかなかった」

「今日だけの話じゃないと思うよ」

「明日もあるかな」

「あるだろうな。誰も買わないから」

 直人の肩が、小さく揺れた。声は出さない。口元だけが、少しだけ緩んでいる。

 それが、笑っているということだと、紗季は、一拍遅れて気づいた。

「三浦、今、笑ったでしょ」

「笑ってない」

「笑った。肩が動いてた」

「……どこ見てるの」

「見てないよ。たまたま目に入っただけ」

 さっき、同じ言い訳をした気がする。紗季は、自分でもよくわからないまま、笑った。直人も、前を向いたまま、もう一度だけ肩を揺らした。

 職員室の前で、二人は自分たちの用事を済ませた。日誌とノートをそれぞれの置き場所に預けて、廊下に出る。

「じゃあ」

「うん、また」

 紗季は、「また」という言葉を、今度は自分で言えた。

 直人は、片手をあげて、階段のほうへ歩いていった。

 紗季は、その背中をしばらく見送った。

 さっき、友達の前で終わったはずの話だった。でも、あの焼きそばパンの話は、ここでやっと、最後までちゃんと届いた気がした。
どうでもいい話を、どうでもいいまま、聞いてくれる人がいる。

 そのことに気づいたとき、紗季は、明日も購買の前を通るのが、少しだけ楽しみになっていることにも気づいた。