水曜日の朝、紗季はあくびを三回、かみ殺した。
昨夜は、友達のアイの相談に付き合っていた。同じ部活の先輩から返事が来ない。こっちからもう一通送ったほうがいいか。そんな話を、日付が変わるまで聞いていた。うん、わかる。それは不安になるよね。でも、今は待ったほうがいいと思う。紗季は、そういうことを言うのが、上手だった。
「紗季、今日の放課後、空いてる?」
一限の前、カナが席の横にしゃがみ込んできた。
「あ、今日はアイと、駅前のカフェに行く約束してたかも」
「えー、アイと? じゃあ、あたしも行っていい?」
「うん、もちろん。いいよ」
言い終えるより先に、口が動いていた。カナは「やったー」と笑った。紗季も、同じように笑った。
カナとアイは、あまり相性がよくない。それを知っているのは、紗季だけだ。今日は、二人の間に座ることになる。そう思ったところで、一限のチャイムが鳴った。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
三限の数学で、黒板の文字が二重に見えた。紗季はシャープペンシルを強く握り、ノートにそれらしい文字を写していた。あとで見返せば、たぶん読めない。
昼休みは、アイのびくびくした報告を聞いて、カナのランチの愚痴を聞いて、両方にうなずいた。笑うときはちゃんと笑った。玉子焼きを食べている間も、今日の放課後のことを、頭の片隅で計算していた。
「紗季って、天使だよね」
アイが言った。ほめ言葉のつもりだと、わかっている。
「えー、全然だよ」
これも、ちゃんと笑いながら言えた。
五限の前の休み時間。
カナとアイは、二人でトイレに立った。教室に残った紗季は、机にほおづえをついて、やっと顔の力を抜いた。
静かになると、目の奥が重い。
「今日、眠そうだね」
少し離れた席から、声がした。
振り向くと、直人が、英語のノートを開いたまま、こちらを見ていた。起きているのか寝ているのかわからない、いつもの目だ。
紗季は、少しだけ笑って、返した。
「あー、ばれた? 昨夜、ちょっと寝るの遅かったんだ」
「ふーん」
それだけだった。
紗季は、しばらく直人を見ていた。こちらの返事を待つでもなく、話を広げようとするでもない。ただ、そこにいる。
こちらが勝手に、言葉を求めてしまった。
「三浦って、冷たいね」
「そう?」
「普通、もっと心配するところじゃない?」
冗談のつもりだった。いや、本当は、冗談の形をした別のものだったかもしれない。
直人は、しばらくこちらを見てから、聞いた。
「心配してほしかったの?」
紗季は、言葉に詰まった。
心配してほしかった。いや、そうでもない。いや、そうかもしれない。迷っているうちに、答えの候補がどれも、本当とは違う気がしてくる。
「……別に。いいよ、そこまでじゃないし」
「そっか」
直人は、からかうでもなく、認めるでもなく、いつもの顔のまま、ノートに視線を戻した。ペンの先が、英単語の一行をゆっくりとなぞっていく。
それが、思ったより──楽だった。
こちらを見ないのに、こちらを見ている。そんな気がした。気を遣って顔を作らなくていい。笑うべきところで、笑わなくていい。
紗季は、ほおづえをついたまま、目を閉じた。
教室のざわつきが、耳の後ろで少し遠くなる。
チャイムと同時に、カナとアイが戻ってきた。
「紗季ー、今日のカフェ、パンケーキ食べようよ」
「いいね、食べよう」
答えながら、紗季は、自分の頬の筋肉が、さっきより少し重いことに気づいた。
笑顔を作り直す前に、直人の席のほうを、ちらっと見る。
直人は、英語のノートに目を落としたままだった。こちらを見ない。でも、さっきと同じように、そこにいる。
──この人の前では、疲れた顔をしてもいいのかもしれない。
そう思って、紗季は、あわてて首を振った。
まだ、確かめたわけではない。ただ一回、そうなっただけだ。
「紗季? どうしたの」
「あ、うん、あくびしそうになっただけ」
「あはは、いつもの紗季だ」
カナが笑う。紗季も、笑った。
さっきより少しだけ、顔の力が抜けた笑いになっていたことは、紗季をのぞいて、誰も気づかなかった。
昨夜は、友達のアイの相談に付き合っていた。同じ部活の先輩から返事が来ない。こっちからもう一通送ったほうがいいか。そんな話を、日付が変わるまで聞いていた。うん、わかる。それは不安になるよね。でも、今は待ったほうがいいと思う。紗季は、そういうことを言うのが、上手だった。
「紗季、今日の放課後、空いてる?」
一限の前、カナが席の横にしゃがみ込んできた。
「あ、今日はアイと、駅前のカフェに行く約束してたかも」
「えー、アイと? じゃあ、あたしも行っていい?」
「うん、もちろん。いいよ」
言い終えるより先に、口が動いていた。カナは「やったー」と笑った。紗季も、同じように笑った。
カナとアイは、あまり相性がよくない。それを知っているのは、紗季だけだ。今日は、二人の間に座ることになる。そう思ったところで、一限のチャイムが鳴った。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
三限の数学で、黒板の文字が二重に見えた。紗季はシャープペンシルを強く握り、ノートにそれらしい文字を写していた。あとで見返せば、たぶん読めない。
昼休みは、アイのびくびくした報告を聞いて、カナのランチの愚痴を聞いて、両方にうなずいた。笑うときはちゃんと笑った。玉子焼きを食べている間も、今日の放課後のことを、頭の片隅で計算していた。
「紗季って、天使だよね」
アイが言った。ほめ言葉のつもりだと、わかっている。
「えー、全然だよ」
これも、ちゃんと笑いながら言えた。
五限の前の休み時間。
カナとアイは、二人でトイレに立った。教室に残った紗季は、机にほおづえをついて、やっと顔の力を抜いた。
静かになると、目の奥が重い。
「今日、眠そうだね」
少し離れた席から、声がした。
振り向くと、直人が、英語のノートを開いたまま、こちらを見ていた。起きているのか寝ているのかわからない、いつもの目だ。
紗季は、少しだけ笑って、返した。
「あー、ばれた? 昨夜、ちょっと寝るの遅かったんだ」
「ふーん」
それだけだった。
紗季は、しばらく直人を見ていた。こちらの返事を待つでもなく、話を広げようとするでもない。ただ、そこにいる。
こちらが勝手に、言葉を求めてしまった。
「三浦って、冷たいね」
「そう?」
「普通、もっと心配するところじゃない?」
冗談のつもりだった。いや、本当は、冗談の形をした別のものだったかもしれない。
直人は、しばらくこちらを見てから、聞いた。
「心配してほしかったの?」
紗季は、言葉に詰まった。
心配してほしかった。いや、そうでもない。いや、そうかもしれない。迷っているうちに、答えの候補がどれも、本当とは違う気がしてくる。
「……別に。いいよ、そこまでじゃないし」
「そっか」
直人は、からかうでもなく、認めるでもなく、いつもの顔のまま、ノートに視線を戻した。ペンの先が、英単語の一行をゆっくりとなぞっていく。
それが、思ったより──楽だった。
こちらを見ないのに、こちらを見ている。そんな気がした。気を遣って顔を作らなくていい。笑うべきところで、笑わなくていい。
紗季は、ほおづえをついたまま、目を閉じた。
教室のざわつきが、耳の後ろで少し遠くなる。
チャイムと同時に、カナとアイが戻ってきた。
「紗季ー、今日のカフェ、パンケーキ食べようよ」
「いいね、食べよう」
答えながら、紗季は、自分の頬の筋肉が、さっきより少し重いことに気づいた。
笑顔を作り直す前に、直人の席のほうを、ちらっと見る。
直人は、英語のノートに目を落としたままだった。こちらを見ない。でも、さっきと同じように、そこにいる。
──この人の前では、疲れた顔をしてもいいのかもしれない。
そう思って、紗季は、あわてて首を振った。
まだ、確かめたわけではない。ただ一回、そうなっただけだ。
「紗季? どうしたの」
「あ、うん、あくびしそうになっただけ」
「あはは、いつもの紗季だ」
カナが笑う。紗季も、笑った。
さっきより少しだけ、顔の力が抜けた笑いになっていたことは、紗季をのぞいて、誰も気づかなかった。



