翌朝は、嘘みたいによく晴れていた。
昇降口の地面はもう乾きかけていて、昨日の雨がどこにあったのかもわからない。紗季は、壊れた傘を入れた鞄を抱えて、いつもより少し早歩きで教室へ向かった。傘は、骨だけ替えれば直るかもしれない。昨日そう言われたことを思い出して、帰りに寄れる店を頭の中で探した。あてはなかった。
「紗季、おはよー。昨日、ちゃんと帰れた?」
教室に入ると、カナが手を振ってきた。
「うん、帰れたよ。でも、傘が壊れててさ」
「え、最悪じゃん。どうやって帰ったの?」
ここで「三浦に入れてもらった」と言えば、たぶん、話はあれこれと広がる。紗季はそれをわかっていた。嫌だったわけではない。ただ、昨日のあれを、今ここで話題にするのは、少しもったいない気がした。
「走って帰った」
「うわ、ガチじゃん」
カナが笑う。紗季も、同じ高さの声で笑う。
ちゃんと笑えたと思う。
そのとき、教室の後ろのドアが開いた。
三浦直人が入ってくる。いつもと同じ、急ぎも遅れもしない歩き方。制服は、もちろん乾いている。
目が合った。
というより、紗季が見ていたのを、直人に見つけられた、という感じだった。
「……昨日、ありがとね」
カナたちの輪を抜けて、少しだけ近づいて、紗季は言った。声は小さめにした。
「うん」
それだけだった。直人は自分の席に座って、鞄から筆箱を出し始める。
紗季は、一秒だけそこに立っていた。続きを待っていたわけではない。ただ、「うん」のあとに何かあると思っていたのに、何もなかった。それに少し拍子抜けしただけだ。
「紗季、三浦と何かあったの?」
席に戻ると、カナが小声で聞いてきた。
「え、なんで?」
「だって今、めちゃくちゃ見てたから」
「見てないよ。たまたま目が合っただけ」
「ふーん」
カナは納得したような、していないような顔をして、今度は週末に行くカフェの話を始めた。紗季は高めの声で相槌を打ちながら、さっきの「見てないよ」が、少しだけ嘘だったことに気づいていた。
四限の英語の小テストは、思ったよりできた。
範囲は四十ページから四十五ページまで。昨日、帰り道で聴いた「四十五」を覚えていたおかげで、範囲を間違えずに済んだ。紗季は、こっそり得をしたような気持ちになった。
とはいえ、彼には言えない。言う理由がない。
昼休み。カナとアイと机を寄せて弁当を広げていると、少し離れた席から足音が近づいてきた。
「小坂」
振り向くと、直人が、プリントを一枚、手にして立っていた。
「英語の宿題、この第三問って、どうやって解くの?」
紗季は、少し驚いた。向こうから話しかけてくるとは思っていなかったからだ。カナもアイも、箸を止めてこちらを見ている。
「えっと、どれ?」
「これ。『文の空所に入る語を選べ』ってやつ」
紗季はプリントを受け取って、問題文を読んだ。中学のときから英語は得意だった。誰かに教えるのは、あまり得意ではないけれど。
「これは、前の「that」を見るといいよ。関係代名詞だから、先行詞が人か物かで──」
言いかけて、紗季は口をつぐんだ。いつもの自分なら、相手の顔色を見ながら、わかりやすい言い方に直して話す。でも直人は、急かすでも、わかったふりをするでもなく、ただ黙って聞いている。その顔を見ていると、言い直す必要がない気がした。
「……つまり、前の語が人だから、ここは「who」」
「あ、そうか」
「うん」
「わかった。先に前の語を見ればよかったのか」
紗季がプリントを返すと、直人は手早く答えを書き込んだ。字は、思ったよりきれいだった。
「ありがとう」
「うん。いや、別に」
「昨日のお礼。これで、ということで」
さらっとそう言って、直人は自分の席に戻っていった。
紗季は、プリントを返した手を、しばらく空中に置いたままだった。
「ちょっと、今のなに? いい感じじゃん」
「何が。宿題を聞かれただけだよ」
「でも、紗季に聞くって、ちょっと意外でしょ」
アイが面白がっている。紗季は「普通だよ」と笑って返した。
けれど頭の中では、さっきの一言が、繰り返し走っていた。「昨日のお礼。これで、ということで」。
つまり、貸しも借りもなし。そう言いたかったのだろう。うまいやり方だと、紗季は思った。そして、なぜか、少しだけ残念だとも思った。
残念。
その単語に、紗季は自分で首を傾げた。
放課後。
カナとアイが、鞄を肩にかけて立ち上がる。
「紗季、帰ろー。駅前のクレープ、今日こそ行こうよ」
「あ、うん。行こう行こう」
紗季は鞄を手に取り、最後にもう一度だけ、教室を見回した。
直人は、もう席を立っていた。
鞄を肩にかけて、誰にも声をかけずに、すっとドアのほうへ歩いていく。誰かが「三浦、またね」と声をかけ、直人が「うん」と片手を上げる。
紗季には、何も言わなかった。
当たり前だと思う。約束しているわけでもないし、呼び止めるほどの関係でもない。昨日、傘に入れてもらった。それだけのことだ。
「紗季、何見てるの?」
カナに聞かれて、紗季はあわてて顔を上げた。
「別に」
また「別に」が出た。そう思いながら、紗季は二人と並んで廊下を歩き、さっき直人が消えたドアの方角を、もう一度だけ見た。
ドアの向こうは、もう誰もいなかった。
昇降口の地面はもう乾きかけていて、昨日の雨がどこにあったのかもわからない。紗季は、壊れた傘を入れた鞄を抱えて、いつもより少し早歩きで教室へ向かった。傘は、骨だけ替えれば直るかもしれない。昨日そう言われたことを思い出して、帰りに寄れる店を頭の中で探した。あてはなかった。
「紗季、おはよー。昨日、ちゃんと帰れた?」
教室に入ると、カナが手を振ってきた。
「うん、帰れたよ。でも、傘が壊れててさ」
「え、最悪じゃん。どうやって帰ったの?」
ここで「三浦に入れてもらった」と言えば、たぶん、話はあれこれと広がる。紗季はそれをわかっていた。嫌だったわけではない。ただ、昨日のあれを、今ここで話題にするのは、少しもったいない気がした。
「走って帰った」
「うわ、ガチじゃん」
カナが笑う。紗季も、同じ高さの声で笑う。
ちゃんと笑えたと思う。
そのとき、教室の後ろのドアが開いた。
三浦直人が入ってくる。いつもと同じ、急ぎも遅れもしない歩き方。制服は、もちろん乾いている。
目が合った。
というより、紗季が見ていたのを、直人に見つけられた、という感じだった。
「……昨日、ありがとね」
カナたちの輪を抜けて、少しだけ近づいて、紗季は言った。声は小さめにした。
「うん」
それだけだった。直人は自分の席に座って、鞄から筆箱を出し始める。
紗季は、一秒だけそこに立っていた。続きを待っていたわけではない。ただ、「うん」のあとに何かあると思っていたのに、何もなかった。それに少し拍子抜けしただけだ。
「紗季、三浦と何かあったの?」
席に戻ると、カナが小声で聞いてきた。
「え、なんで?」
「だって今、めちゃくちゃ見てたから」
「見てないよ。たまたま目が合っただけ」
「ふーん」
カナは納得したような、していないような顔をして、今度は週末に行くカフェの話を始めた。紗季は高めの声で相槌を打ちながら、さっきの「見てないよ」が、少しだけ嘘だったことに気づいていた。
四限の英語の小テストは、思ったよりできた。
範囲は四十ページから四十五ページまで。昨日、帰り道で聴いた「四十五」を覚えていたおかげで、範囲を間違えずに済んだ。紗季は、こっそり得をしたような気持ちになった。
とはいえ、彼には言えない。言う理由がない。
昼休み。カナとアイと机を寄せて弁当を広げていると、少し離れた席から足音が近づいてきた。
「小坂」
振り向くと、直人が、プリントを一枚、手にして立っていた。
「英語の宿題、この第三問って、どうやって解くの?」
紗季は、少し驚いた。向こうから話しかけてくるとは思っていなかったからだ。カナもアイも、箸を止めてこちらを見ている。
「えっと、どれ?」
「これ。『文の空所に入る語を選べ』ってやつ」
紗季はプリントを受け取って、問題文を読んだ。中学のときから英語は得意だった。誰かに教えるのは、あまり得意ではないけれど。
「これは、前の「that」を見るといいよ。関係代名詞だから、先行詞が人か物かで──」
言いかけて、紗季は口をつぐんだ。いつもの自分なら、相手の顔色を見ながら、わかりやすい言い方に直して話す。でも直人は、急かすでも、わかったふりをするでもなく、ただ黙って聞いている。その顔を見ていると、言い直す必要がない気がした。
「……つまり、前の語が人だから、ここは「who」」
「あ、そうか」
「うん」
「わかった。先に前の語を見ればよかったのか」
紗季がプリントを返すと、直人は手早く答えを書き込んだ。字は、思ったよりきれいだった。
「ありがとう」
「うん。いや、別に」
「昨日のお礼。これで、ということで」
さらっとそう言って、直人は自分の席に戻っていった。
紗季は、プリントを返した手を、しばらく空中に置いたままだった。
「ちょっと、今のなに? いい感じじゃん」
「何が。宿題を聞かれただけだよ」
「でも、紗季に聞くって、ちょっと意外でしょ」
アイが面白がっている。紗季は「普通だよ」と笑って返した。
けれど頭の中では、さっきの一言が、繰り返し走っていた。「昨日のお礼。これで、ということで」。
つまり、貸しも借りもなし。そう言いたかったのだろう。うまいやり方だと、紗季は思った。そして、なぜか、少しだけ残念だとも思った。
残念。
その単語に、紗季は自分で首を傾げた。
放課後。
カナとアイが、鞄を肩にかけて立ち上がる。
「紗季、帰ろー。駅前のクレープ、今日こそ行こうよ」
「あ、うん。行こう行こう」
紗季は鞄を手に取り、最後にもう一度だけ、教室を見回した。
直人は、もう席を立っていた。
鞄を肩にかけて、誰にも声をかけずに、すっとドアのほうへ歩いていく。誰かが「三浦、またね」と声をかけ、直人が「うん」と片手を上げる。
紗季には、何も言わなかった。
当たり前だと思う。約束しているわけでもないし、呼び止めるほどの関係でもない。昨日、傘に入れてもらった。それだけのことだ。
「紗季、何見てるの?」
カナに聞かれて、紗季はあわてて顔を上げた。
「別に」
また「別に」が出た。そう思いながら、紗季は二人と並んで廊下を歩き、さっき直人が消えたドアの方角を、もう一度だけ見た。
ドアの向こうは、もう誰もいなかった。



