放課後、キス、しませんか

 月曜日の放課後、紗季は決めていたとおり、コンビニの缶コーヒーの棚の前に立った。

 決めていた、と言っても、心の中でこっそり決めただけだ。

 直人は、迷わなかった。黒くて地味な缶を、一目で見つけて、手に取った。金曜日に見たのと、同じやつだ。

「……それ、いつもの?」

「うん。これしか飲まない」

 紗季は、「そっか」と答えた。少し迷ったあとで、紙パックのミルクティーを、いつもの棚から取り出す。

 これで、一つ。

 直人のことを、一つ知った。それは、思ったより、小さくて温かい気持ちになった。
帰り道の信号が、赤になった。

 二人で、横断歩道の前で立ち止まる。紗季は、ストローをくわえたまま、「あ、そうだ」と声を出した。

「今日、世界史でさ、先生が」

「うん」

「『ナポレオン』って、『ナポリタン』って言い間違えて」

直人の目が、ピクと動いた。

「……ナポリタン」

「しかも、真顔で。『ナポリタンがエジプトに遠征して』って、そのまま話を続けて」

 直人の肩が、小さく揺れた。

 声は出さない。口元だけが、少し緩んでいる。紗季は、それが、もう見慣れた笑い方になっていることに、気づいた。

「それ、誰も直さなかったの?」

「誰も。みんな、ちょっとニヤニヤしてたけど、言わなかった」

「優しいね」

「今ここで言ってるから、あとで全部ばれるでしょ。この話」

 紗季が言うと、直人は、ちょっと考えてから、言った。

「……俺も、今日、一個ある」

「え。聞きたい」

「弁当の卵焼きが、崩れてた」

 紗季は、続きを待った。

 信号が青になって、歩き出して、もう一度待った。

「……それだけ?」

「それだけ」

 紗季は、吹き出した。

 卵焼きが、崩れてた。それだけ。直したわけでもなく、誰かに怒ったわけでもなく、ただ、それだけ。

 ここに来て、紗季は、初めて気づいた。
この人と話しているとき、話の「落としどころ」を、一度も探していない。

 面白くない話を、面白くないまま話していい。役に立たない話を、役に立たないまま置いていい。

「……あのさ、これ、習慣にしない?」

「習慣?」

「今日あったどうでもいいことを、一つずつ、話す。で、続きは聞かない。落としもいらない。ただ、話すだけ」

 紗季は、言い終えてから、自分の顔が、少しだけ熱いことに気づいた。

 直人は、しばらく黙っていた。

「……毎日は、無理だと思う」

「あ、うん。でもさ」

「ネタがない日もあるでしょ。無理に探すのは、ちょっと違う気がする」

 これは、断られたのだろうか。紗季は、一瞬だけ、胸のあたりが冷たくなった。

 だから、直人が、すぐに続けたときには、最初、言葉が頭に入ってこなかった。

「だから、思いついたときだけ。それなら、いいと思う」

「……思いついたときだけ」

「うん。それなら、続くと思う」

 紗季は、おかしなことに、笑いそうになった。

 言い出したのは、紗季だ。なのに、続け方を、直人のほうがちゃんと考えている。

「じゃあ、それで。ルールは『思いついたときだけ、どうでもいい話』」

「ルールなんだ」

「ルールです。破ったら、チョコをおごる」

「破りようがないでしょ、このルール」

「確かに」

 二人で、笑った。

 紗季は声を出して。直人は、肩だけで。

 翌日、火曜日。

 紗季は、朝の教室で、何も思いつかなかった。

 先生の間違いも、猫も、自販機の男の子も、すでに使い切っている。ノートのメモは、空白だった。

 でも、これでいい。思いついたときだけ。そういうルールにしたのだから。

「……小坂」

 後ろから、小さな声がした。

 授業が始まる前。紗季は、振り向かずに、肩越しに返事をする。

「うん?」

「どうでもいい話、一個ある」

 紗季は、ゆっくりと、直人のほうを向いた。

 このルールを、一番に守ろうとしているのは、どうやら、言い出した紗季ではなかった。