生徒ひとりの島に、ふたりめが来た



 朝、南の浜を見に行ったら、いつもより高いところまで泡が届いていた。

 台風が近づいていることは、昨日からニュースで聞いていた。港の掲示板には午後の船の欠航が出ていて、父ちゃんも朝のうちに船をつなぎ直している。朝の予報を聞いたときには、うねりがこんなに早く浜の奥まで入るとは思わなかった。

 神社の下の階段から見ていると、一つ前の波が引ききる前に次の波が来た。七月に靴跡を撮った砂のあたりは、白い水の下だった。潮が高い時間だからというだけではなさそうだ。

「そこから先へは下りるなよ」

 背後から父ちゃんに呼ばれた。漁具を縛ってきたらしく、軍手にロープの繊維がついている。

「下りんよ。でも、思っとったよりうねりが入っとる」
「沖の波が回り込んどるんやろ。予報も変わるけん、今の情報を見とけ。港へ戻るぞ」

 父ちゃんは一度だけ海を見てから、先に階段を上がった。おれも後を追った。風はまだ歩けないほどではない。それでも浜の石が波に転がされる音は、階段の上まで聞こえた。


 家に戻ると、玄関には水を入れた容器と懐中電灯が並んでいた。ばあちゃんは近所の人と、先に公民館へ上がったという。父ちゃんは防災無線で南の低い地区に避難の案内が出たことを聞き、公民館へ持っていく袋を広げた。

「航、棚の上の薬箱と、学校の連絡先が入った封筒、取ってくれ」
「うん」

 棚から封筒を引き出すと、下に挟んでいた薄い冊子が一緒に滑り出した。

 水産高校の案内だった。

 夏休みに本土へ行ったとき、もらってきたものだ。船の機関や水産資源の勉強ができると書いてあって、見たかったページの角だけ少し折ってある。

「何か落ちたか?」

 父ちゃんが振り返ったので、おれは冊子を拾い、学校から来たプリントの下へ押し込んだ。

「連絡の紙。こっちも持ってく?」
「必要なもんだけでよか。あとで戸締まり見てくれ。公民館へ行く前に港の手伝いもある」

 父ちゃんはもうロープを手に取っていた。おれは封筒を避難袋へ入れ、冊子のある棚を閉めた。

 五月に澪から、島を出るつもりはないのかと聞かれて、おれは「ない」と答えた。父ちゃんにも、その話をしたことがない。いま言えば、避難の準備どころではなくなる気がした。けれど、春になってから「実は」と切り出すのも嫌だった。


 学校へ寄ると、春日先生が小学部の先生と連絡を取り合っていた。午後の授業は取りやめになり、避難所の手伝いに来るなら、大人の指示を受けるよう言われる。

 澪はもう昇降口にいた。受け入れ先の家も低い場所にあり、公民館へ向かうという。

「一緒に行く?」
「父ちゃんが港におるけん、少し手伝ってから。先に行っとって」
「分かった。公民館で会おう」

 澪は鞄のひもを直した。八月の祭りのあと、二人きりになると話が途切れることがある。今日も、古い地図のことは聞かなかった。

 港では船の綱を増やす人や、風で飛びそうな箱を建物へ運ぶ人が動いていた。おれは父ちゃんの指示で、濡れてはいけない書類をまとめて運んだ。権蔵さんも岸壁にいて、若い人に「そっちの戸も閉めとけ」と声を飛ばしている。

「浜崎、これ運べるか」

 差し出されたのは軽いロープの束だった。おれは受け取り、倉庫へ運んだ。

「さっきの浜、波が階段の下まで来とったよ」
「ほうか。南側の家には、早めに公民館へ上がるよう言っとる。おまえもここで長居するな」
「分かっとる」

 権蔵さんが束ねた網を、二人で持ち上げた。


 公民館に着いたときには、玄関に長靴が何列も並んでいた。浜沿いと低地の家の人から順に避難してきている。高台の家の人は、自宅で待機しているという。

 澪は入口の机で、春日先生から渡された受付表を見ていた。名前を尋ね、家族がそろっているか確認している。おれが入ると、指を一本立てて「少し待って」の合図をした。

「航、こっちの毛布を運んでくれる?」

 先生に呼ばれ、物置と広間を何度か往復した。小学部の子たちには、床に敷くマットを広げてもらう。みのりは家族と一緒に来ていて、おれの運ぶ毛布を見て「こっちに二枚!」と手を振った。

「先生に確認してからな」
「分かっとるよ」

 みのりは笑って、空いている場所を指した。

 広間の窓には板が当てられ、雨戸のすき間から細い光が差していた。廊下を歩くたび、外の風の音が大きくなっていく。

 新見さんは公民館の外に置かれた発電機の準備を手伝っていた。雨を避ける屋根の下で、建物の窓や出入口から離した場所だ。管理を任された大人が何人かいて、新見さんはその人たちと燃料やコードを確認している。

「ここ、いつも電気が止まると?」

 おれが聞くと、新見さんは手を拭いて顔を上げた。

「必ずじゃないよ。止まっても困らないように、今のうちに点検してるんだ」
「カメラは濡れんと?」
「今日はしまってる。君が撮った波も見たいけど、まずはここを動かせるようにしないとね」

 新見さんは管理の人に呼ばれ、機械のほうへ戻った。発電機の周りには、点検用の道具が並んでいる。おれはそのまま広間へ戻った。

 夕方前、みのりのお母さんが受付で源治さんの名前を気にしていた。

「さっき山の道で見かけたけど、まだ来とらんね。箱を抱えとったし、手伝いが要るならと思ったんよ」
「箱?」

 おれが聞くと、みのりのお母さんは、神社の裏へ続く道を指した。

「午後、あっちへ上がっていきよった。両手で抱えるくらいの箱。声をかけたけど、風が強うて聞こえんかったかもしれん」
「源治さん、神社の物を片づけよるって言いよったな」

 おれは五月に見た貯蔵室の棚を思い出した。

 机の向こうで澪が受付表から顔を上げた。延長コードの束を抱えた新見さんも足を止め、話が終わると廊下の奥へ進んだ。

 避難してきた人の名前がまた呼ばれ、澪は机へ向き直った。おれも入ってきた人の荷物を広間へ運ぶ。源治さんのことは、すぐに別の仕事に紛れた。

 最後の組が着いたころ、外はすっかり暗くなっていた。源治さんは作業着のままで、ズボンの裾と靴に赤い土がついていた。受付の前で息をつき、濡れた帽子を袋にしまう。

「神社の戸締まりは済んだと?」
「うむ。何度も確かめてきた」

 澪が名前を表に書き込む。源治さんはおれたちを見たが、八月の説明会の話も、お守りのことも持ち出さなかった。

「もう山へは戻らんよね」

 おれが聞くと、源治さんは玄関の向こうを見た。

「この風じゃ、戻れんよ。ここで朝まで世話になる」

 先生が乾いたタオルを渡し、源治さんを広間へ案内した。


 夜になると、公民館の床には寝具が並んだ。父ちゃんは港の手伝いを終えて来て、明日の便も出ない見込みだと話していた。廊下に置かれたラジオからは、台風の進路と雨への警戒を伝える声が流れる。

 おれはみのりたちの寝る場所に水を運び、空になった容器を台所へ返した。戻ると、澪が受付の机にいた。

「まだ仕事しよると?」
「先生の横で、遅れて来た人の名前を足してるところ。眠れないから。あとは見回りの人の出入りも、ここにいる間は書いておこうかって」

 机には受付表と別の紙があり、澪はその横に時計を置いていた。玄関から入った係の人に「戻りました」と声をかけられると、時間を見て短く書き添える。

 澪は鉛筆を置き、紙が風で飛ばないようクリップで留めた。

「航は寝なくていいの?」
「もう少ししたら」

 澪の向こうに、壁に貼られた島の避難経路図があった。港から学校への道、南の浜から公民館へ上がる道。昼間歩いた道が、細い線になっている。

「今日、浜の波が高かった。あそこは風が当たるだけじゃなくて、沖からうねりが回り込むけん」
「白い平石は?」
「朝は波の下。今はもっと見えんやろ。近づかんほうがよか」

 澪は地図を見た。八月に二人で歩いた潮の道のことを、思い出しているようだった。

「……八月の話、途中になったままやね」

 おれが言うと、澪は鉛筆を指の間で転がした。

「うん」

 それ以上は続かなかった。おれも、棚の下へ隠した高校の案内のことを言いかけて、やめた。


 夜中の二時前、広間へ戻りかけたときだった。天井の照明が一度明るくなり、すぐに消えた。廊下の奥から声が上がる。窓の外で風が鳴り、足元の非常灯だけが薄く光った。

「停電だ。みんな、その場で待ってください」

 春日先生の声が聞こえた。係の人が懐中電灯を持ち、外の発電機を確認する準備を始める。

 澪は受付の机から動かなかった。おれも、その横で通路を空けた。

 新見さんが雨具を着て、係の人のところへ来た。

「外の設備を見てきます。点検していた場所も確認したいので」

 係の人が懐中電灯を渡し、玄関の戸を開ける。新見さんは澪の前を通り、暗い外へ出ていった。

 澪は机の時計を見て、記録用の紙に何かを書きつけた。