八月の祭りの日、みのりは朝から紙の旗を三本も折っていた。
「一本は航兄ちゃんの。こっちが澪姉ちゃん」
「おれのだけ、なんで魚が描いてあると?」
「航兄ちゃん、魚が好きやろ」
「澪のは?」
「地図!」
澪の旗には、四角い島の周りに青い線がぐるぐる引かれていた。澪はそれを受け取って、「どこの島か分かる?」とみのりに尋ねた。みのりが「潮守島に決まっとる」と答えると、澪は自分の手帳で位置を確かめ、みのりの旗に学校と港を書き足した。
「これじゃ、うちの島、四角すぎるよ」
みのりは口をとがらせ、澪から鉛筆を取って海岸線を描き直し始めた。
神社の境内には、色のついた旗と、祭りの支度をする人が集まっている。今日は神鏡を子島の小さな祠まで運ぶ日だ。昔から続く神事だが、潮の道を渡るので、海の様子が悪い年は途中で取りやめることもある。
出発する前に、おれは澪を浜の上へ連れていった。朝のうちは水に隠れていた砂の筋が、海の中に少しずつ現れている。
「白い平石、見える?」
「どれ?」
「向こうの、低くて平たい石。真ん中あたり」
澪は目を細めた。小さく波がかぶったあと、白い石の角がまた顔を出した。
「あれが出てくると、そろそろ道の様子を見に行けるんよ」
「渡っていい合図?」
「目安だけ。石が見えても、その先がまだ水の下だったり、波が強かったりするけん」
今日は係の大人が何人も来ていた。潮の予測を記した紙を持つ人が一人。ほかの人は浜から道の状態を見て、通れる範囲を確かめている。父ちゃんも先頭の係と話し、岸へ戻ってきた。
「もう少し待つぞ。平石の先、まだ波が乗りよる」
澪は紙に書かれた予定の時間を見ていたが、時計をしまった。みのりが作った旗は風にあおられて、魚の頭が折れ曲がっている。
しばらくすると、係の人が先の地面まで確かめて戻り、神事に参加する人へ歩く順番を伝えた。道から外れないこと、帰りも係の指示に従うこと。おれと澪は父ちゃんの後ろ、みのりは母親と一緒に歩く。
出発の前にいったん神社へ戻ると、本殿の前に木箱が運ばれていた。古い運搬箱で、持ち手の部分だけ色が薄い。源治さんが箱の蓋を開け、内側の布を少し持ち上げる。
「これが神鏡じゃ」
銅色の鏡は、おれの顔より少し大きかった。源治さんは布を当てながら、鏡の背を見せた。波を何本も重ねたような文様があり、縁の一か所が小さく欠けている。
「欠けとる」
「ずっと昔からな。磨いて消えるような傷ではない」
澪は波の線をじっと見ていた。源治さんは鏡を布の上へ戻し、箱の内側の詰め物を整えた。蓋が閉まると、二人の大人が箱を持ち上げる。
その横で、新見さんがカメラを構えていた。祭りの記録を頼まれたらしい。
「箱も一枚、撮っていいですか」
源治さんは箱と新見さんを見比べた。
「外側だけならええ。蓋はもう開けんよ」
「分かりました。祭りで運ぶ様子を中心に撮ります」
新見さんは少し離れてシャッターを押した。源治さんは箱の持ち手をもう一度確かめた。
潮の道は、浜から見たより細く感じた。白い平石のそばは硬い地面で、砂の区間より靴が滑りやすい。おれたちは前の人の歩いた場所をたどった。子島までの短い道でも、立ち止まって海を眺める余裕はない。
祠の前で神事が終わると、係の人が帰りの道を確かめに出た。向こうの島で長居はしない。大人が持った神鏡の箱は、来たときと同じように列の真ん中を運ばれた。
潮守島へ戻ってから、澪は白い平石を振り返った。行きには白く乾いていた上面を、今は薄い水がなでている。
「同じ日でも、ずっと道があるわけじゃないんだね」
「そう。来られたからって、いつでも帰れるわけじゃなか」
おれが言うと、澪は折り目のついた旗を鞄へしまった。
祭りの片づけが終わった午後、公民館で島の人への説明会があった。少し前から神社の氏子総代たちが話し合っていたことを、みんなに知らせるためだ。おれと澪は椅子を並べ、後ろのほうに座った。
机の前には源治さんと数人の総代がいる。権蔵さんは腕を組んで、その向かい側に座っていた。
「本土の文化施設を運営しとる財団から、神鏡を譲ってほしいという話が来ています」
総代の一人が説明した。先方は保存と公開を引き受けるという。神社側では売却の方向で協議を進め、手続きが整えば九月の引き渡しを目指す、と続けた。
「神社の物ですから、わしら総代の話し合いだけで今日売れるわけではありません。必要な確認と手続きを済ませてからです」
前の列で、誰かが小さく息を吐いた。
「祭りで鏡を渡すのは今日が最後になるとか」
後ろから声が上がった。総代はすぐには答えず、源治さんのほうを見た。
「それも、これから考えんといかん。あれがない神事を、今までどおりとは言えんからな」
源治さんの声は、貯蔵室の前で猫に話しかけていたときより低かった。
「波の模様も、あの欠けも、この島で守ってきたもんじゃ。それを箱に入れて本土へ送れば、また戻せると思うとるのか」
「戻らんかもしれん。それは分かっとる」
権蔵さんが答えた。
「だが、船の便を減らす話も出とる。病院の予約に合わせて本土へ行っても、その日に帰れる便がなくなったらどうする。薬を取りに行く人もおる。網の修理に要る道具も、こっちだけではそろわん」
前の列の人が「うちも困る」と言った。別の人は「鏡を売ったら、船の話が片づくと?」と尋ねる。
「片づくわけじゃない。船会社との話も、町への相談も続けんといかん」
権蔵さんはそう言って、総代のほうへ向き直った。
「ただ、今あるものをどうするかも決めずに、待つだけでよかとは思えん」
総代の人が、神社の財産の扱いと航路を支える話は別に確認しなければならない、と説明した。金額や使い道を決めたわけでもない。神鏡を譲る方針に賛成する人も、急ぐべきではないと言う人もいた。
源治さんは膝の上で両手を握っていた。
「わしは反対じゃ。長いこと守ってきた鏡を、暮らしが苦しいからと手放すのは、違うと思う」
「なら、どう残す?」
権蔵さんに聞かれ、源治さんは答えるまで時間がかかった。
「……それを、今ここで言えんから困っとる」
権蔵さんは何か言いかけたが、口を閉じた。
説明会が終わるころには、窓の外の日差しが傾いていた。出口では、鏡のことを話す人と、船便のことを話す人が別々の輪になっていた。
公民館の階段に腰を下ろしたとき、澪が例の地図を出した。七月の帰り道で、二人で風から押さえた紙だ。
「祭りで歩いてみて、分かったことがある」
澪は潮の道を指し、その上を鉛筆で軽くなぞった。
「白い平石が見えてからも、係の人は待ってた。道がつながる時間は、表の数字だけでは決められないんだね」
「今日は波がまだ乗りよったけん。父ちゃんたちは、先まで見てから通した」
「もし島から何かを運び出すなら、潮の道を使う時間を確かめないといけない」
澪は見張り小屋の印を指した。次に、黒板を書き換えられた漁協と、定置網船の航路へ指を移す。
「遠くから目印になる光があった。船が出る時間を変えようとした人がいる。潮の道には、戻り方が変わって見える足跡が残ってた」
「島から船へ、何かば渡すつもりやった、と?」
「そんな計画を考えていた人がいたのかもしれない。別々の出来事だった可能性もあるけど」
おれは地図に描かれた子島の裏側を指した。祭りのときは小さな祠までしか行かなかった。裏側の浜は、道の上からもよく見えない。
「船で受け取る人がいたとしても、こっちからは見えん場所がある」
「その場所、先生と戸田さんにも教えて」
おれたちは公民館に戻り、春日先生を通して戸田巡査に話した。澪の地図と、写真の控えを机に広げる。光、黒板、足跡を結ぶ話をすると、巡査は一つずつ場所を確かめた。
澪は地図の神社の位置を指した。
「船に何かを渡す話なら、神社の近くも気になります。ただ、今の段階では何を狙っているかは分かりません」
「分かりました。神社には防犯の注意を伝えます。前の件も、写真だけで終わりにはしていません」
戸田巡査は、七月の写真を船員に見せた結果も教えてくれた。人影が写った岩場は、船から見た場所と合っていた。カメラの時計のずれも確かめたが、船員は何分に通ったかまでは覚えておらず、同じ人影かどうかを絞るには至らなかった。
春日先生は二人の話を聞いてから、巡査へ言った。
「子どもたちだけで、また潮の道へ行かないようにします。確認が必要なら大人がします」
「お願いします」
新見さんにも、戸田巡査が話を聞いた。おれたちは廊下で待っていたので、詳しいやり取りは聞こえなかった。
新見さんが部屋を出ると、源治さんが待っていた。
「あの人は、春から鏡のことをよう尋ねる。撮るだけなら、あそこまで聞かんでもよかろうに」
戸田巡査は、今聞いた説明とほかの証言も確認すると言った。源治さんはしばらく黙り、神社のほうへ向き直った。
「鏡は、わしが責任を持って守る。九月まで、誰にも勝手に触らせん」
「源治さん、一人で抱えこまず、管理する方たちと相談してください」
春日先生が言ったが、源治さんは短くうなずいただけだった。
帰り際、春日先生から、祭りと四月の撮影について、新見さんが資料を見せて説明したと聞いた。
帰り道、澪は祭りで見た波の模様を手帳に描いていた。小さな欠けも忘れず、円の縁に印をつけている。
「澪、前にも神社の道ば調べよったよな」
「うん」
「古い地図も持っとる。お守りのことも、源治さんに聞かれたやろ」
澪の鉛筆が止まった。
「一年だけ、島に来たのは……何か調べるためなん?」
しばらく答えがなかった。海から戻る風で手帳のページが浮き、澪が指で押さえる。
「航に、嘘はつきたくない」
「なら、教えてよ」
「今は、ちゃんと話せない」
澪は手帳を閉じた。おれの横を歩き始めたけれど、さっきまでより、少しだけ間が空いた。

