生徒ひとりの島に、ふたりめが来た




 教室に入るなり、澪が机の上へ端末を置いた。

 いつもなら、おれが窓側に座るまで澪は教科書を広げている。今日は鞄も下ろさず、画面をこちらへ向けてきた。

「これ、もう一回見たい」

 画面には今朝の漁協の黒板が写っていた。大きく書かれた『7時』を見て、まだ腹の奥がむずむずする。

「もう撮ったやろ」
「撮ったから、今見られるんだよ」

 澪は指で画面を広げ、数字のところで止めた。

「この7、真ん中に短い横棒がある」

 そう言われて初めて気づいた。昨日、おれたちが見た『5時』は普通の書き方だったが、今の7は、斜めの線を横切るように一本加えてある。

「こっちも見て」

 澪が手帳を開いた。前日の夕方に書き留めた出港予定は『5時』だった。黒板を写したものではなく、澪がその場で書いた数字だった。

「誰かの癖とか?」
「そうかもしれないけど……」
「おっ、宿題より先に黒板の勉強か」

 春日先生が入ってきて、澪の画面をのぞいた。事情は朝のうちに伝わっている。先生は黒板の端に今日の日付を書き、国語の教科書を開いた。

 月を表す7にも、真ん中に横棒がついていた。

 おれは自分の指を空中で動かして、同じ数字を書いてみた。横棒を足すと、たしかに7の形ははっきりする。

「あ、先生もそう書くと?」
「数字の見間違いを減らしたくてね。昔からの癖だよ」

 澪は画面と先生の字を見比べ、首をかしげた。

「新見さんも、こう書いとった」

 口に出した途端、思い出した。四月、灯台の光を調べた日に、港で新見さんが写真の封筒へ『4/7』と書いた。あの7も、真ん中に棒が入っていた。

「写真、覚えとる。父ちゃんのをくれたとき」
「新見さんの字は、あとで確認できる?」
「封筒は持ち帰っとったけん、今はない。でも、書くところは見た」

 澪は手帳の端に三つの7を描いて並べた。眺めたあと、そこで鉛筆を置いた。

「形だけじゃ、あまり絞れないね」
「先生もおるしな」

 授業が始まると、机の端に寄せていた端末を澪がしまった。おれのノートに書かれた『7』には横棒がない。つい自分の数字まで見比べていたら、先生に問題の続きを読むよう言われ、行を一つ飛ばしてしまった。

 澪が自分の教科書の行を指してくる。

 休み時間になって、澪が端末をもう一度出しかけたので、首を振った。

「続きは放課後でよかろ。今、次の問題やらんと」
「そうだった。まだ二問残ってる」

 二人で答えを出し終わるころには、次の先生の足音が廊下に近づいていた。


 放課後、春日先生に声をかけてから、二人で漁協へ下りた。戸田巡査が黒板の件で話を聞いているという。入口の戸を開けようとすると、権蔵さんが向こうから出てきた。

「おう、浜崎。今朝は悪かったな」
「……うん」

 いつもなら漁の話をひとつくらい聞くのに、今日はそれ以上言葉が出なかった。権蔵さんも引き止めず、こちらへ道を空けた。

 漁協の人が、戸田巡査の前で昨夜の様子を説明していた。

「片づけて事務所に鍵をかけたのは、日が落ちる前です。そのときは『5時』でした。自分でも確認しています」
「今朝、一番に来た人は?」
「最初の船員が、黒板を見て七時になっとると思ったそうです。そのあと船長が来て、昨夜決めた五時のまま出ると確認しました」

 おれと澪が前の夕方に見た『5時』は、鍵をかけるときにも残っていたことになる。今朝最初に来た船員は、すでに『7時』を見ている。

「事務所に鍵をかけたら、黒板は触れんの?」

 おれが尋ねると、組合の人は戸口を指した。

「黒板は外やろ。中は鍵をかけるが、こっちは誰でも近づける。漁師だけじゃなく、荷物を運ぶのを手伝う島の人も見るけんな」

 戸田巡査が「前の夕方から今朝の間、ということですね」と言い、二人の話を手帳に加えた。

 黒板にはもう正しい予定が書かれていた。書き換えられた『7時』が残っているのは、おれたちの撮った写真の中だけだ。

 漁協の人は入口の外へ出て、黒板の前に立った。

「夜でも、この辺は通れるけん。誰かが立っとったとしても、用がある人かどうか分からん」

 戸田巡査は岸壁にいた人たちの名前を確かめ、朝の準備を手伝った人にも順に聞くと言った。おれは、前の日に自分たちがここで船の時間を調べたことを思い出した。あのときも、誰かに断る必要なんてなかった。

「船は五時に出たんですよね」

 澪が確かめると、組合の人はうなずいた。

「船長が誰にも予定変更を頼んどらん。あのまま行っとれば、支度に来る人も困ったろうね」
「それと、定置網船は子島の近くを通りますよね」

 澪が言った。組合の人が答える前に、おれは岸壁の外を指した。

「港を出て南の漁場へ回るとき、子島が左に見えるところを通る。父ちゃんの船とは違う道やけど、定置網船はようあそこを通るんよ」
「そうそう。潮が引いとる朝は、道の手前の砂も船から見える」

 組合の人はそう答え、巡査のほうを向いた。

「今朝乗っていた者が、子島側に人影を見たと言っていました。遠くて、誰かまでは分からなかったそうですが」
「その人と話せるかな」

 おれが聞くと、組合の人が船員を呼んでくれた。船員は濡れた長靴のまま入口の外に立ち、沖で見たものを話した。

「子島のほうの浜に、人が立っとるように見えた。船が進んだら岩に隠れてしもうた。何をしよったかは見えんかったよ」
「子島に渡ってたんですか」
「そこまでは分からん。遠かったけん」

 おれは南の浜の岩の形を思い浮かべた。見る向きによっては、砂の道の先が岩に隠れる場所がある。

「船からやと、あの白っぽい岩の手前になる?」

 おれが二つの岩場の呼び名を出すと、船員は一方を選んだ。

「ああ、そっち。港から回っていくと、先に見える岩だ」

 澪は手帳に島と子島を簡単に描き、その位置を示した。おれの撮影した浜と、そう遠くないところだ。おれは、今朝の写真に写った白い袋を思い出した。

「黒板が七時のまま通ったら、その船は二時間後に出とったんよな」
「準備が全部ずれたら、そうなったかもしれん」

 船員が答えた。

 おれは澪の図を見た。船が来なければ、子島側の浜は少なくとも船の上からは見られない。その朝の二時間を空けたかった人がいるとしたら――。

「漁の仕事が嫌いやったわけじゃなくて、船にそこを通ってほしくなかった、とか」

 おれが言うと、澪は図の船の位置をずらした。

「出港を二時間後にできれば、朝の海を見る人が減る。そのつもりだった可能性はあるね」
「でも、船長が予定どおり出した」
「うん。だから、もしそのつもりなら失敗した」
「でも、予定どおりに出たから、見えたものがある」

 澪が言うと、船員は「それで何か分かったと?」と首をかしげた。

「まだ。でも、航が今朝撮った写真を見てから、もう一度考えたいです」


 学校へ戻ったとき、春日先生は職員室にいた。おれは教室に置いていたカメラを取り、澪と机を並べて画面を開いた。

「今朝の写真、まだ見せとらんかった」
「そうだった。まず、何を撮ったの?」
「新見さんが足元を見ろって言ったけん、砂を撮りに行ったんよ」

 一枚目は波の模様と貝殻。何枚か送ると、道の入口に向かう靴跡の写真が出てきた。

「これ、誰の?」
「分からん。おれが着いたとき、もうあった」

 澪は画面を近づけた。おれが次を開くと、同じ跡が砂の区間に一列続いていた。

「戻る跡は?」
「おれが見たところにはなかった。でも硬いところには、そもそも跡がつきにくい」

 澪は写真を行ったり来たりした。おれは人影を撮った画像へ戻した。

「あと、これ」

 白い袋らしいものが海際にあり、少し離れたところに人の姿が小さく写っている。澪は画面の向きを変え、少し目を細めた。

 新見さんに教わったとおり、元の写真を残したまま表示だけ大きくしてみた。白いものの口が結ばれているようにも見える。でも、ぼやけた線を何度広げても、それ以上ははっきりしなかった。

「人だね。顔は見えないけど」
「船の人が言うた場所、近くない?」
「近そう。けど、船がそこを通ったときと、航がこれを撮ったときが同じかは、まだ分からない」

 言われて、おれは浜を出たあと漁協に着いたときのことを思い返した。定置網船がもう出たのは分かっていたが、撮影していた間に子島の横を通ったかどうかは知らない。

「船員さんに、この写真の岩を見てもらおう」

 おれが言うと、澪はうなずいた。

「戸田さんにも。写真を見れば、場所をもう少し確かめられるかもしれない」

 春日先生に話すと、巡査に見せるまで、カメラの写真を消さないよう言われた。おれは肩ひもを巻き直した。

「新見さんに借りとるカメラやけん、返す日も近かよ」
「それなら、写真を確認することは早めに巡査さんに相談しよう」と先生が言った。

 朝は貝殻を撮るつもりだった。今は足跡の写った画面ばかり開いている。

 帰り支度をしながら、澪が靴跡の写真をもう一度開いた。

「行きは、こっち向きだよね」
「うん。子島のほう」

 澪の指が、砂の一列をゆっくりたどる。

「行った先から、戻ってきてないみたいに見える」