新見さんから借りたカメラは、首にかけると思ったより重かった。
七月の朝、空が明るくなり始めたころ、南の浜へ下りた。昨日、港で撮った写真を見せたとき、新見さんは「遠くの景色だけじゃなくて、足元も見てごらん」と言って、カメラを数日貸してくれた。いつも写真を撮ると、島の山と海ばかりが真ん中に来る。砂に残る波の模様でも、光の当たり方でずいぶん違って見えるらしい。
電源を入れて、まず砂を一枚。画面で見ると、肉眼では気にもしなかった小さな貝の殻まで写っていた。落としたら困るので、肩のひもをもう一度かけ直した。
神社の下の浜には、潮の道の入口がある。海が引くと、子島へ延びる地面の一部が姿を出す。今日は手前の砂が乾き始めていたが、その先にはまだ水の光るところがあった。向こうまで歩けるかどうかは、ここから見ただけでは分からない。入口の陸側には石敷きの道があり、石垣に沿って船具小屋の脇へ続いている。
おれは浜の上の乾いた場所にしゃがみ、砂を撮った。二枚目を撮ろうとして、ファインダーの端に靴の跡が入った。
道の入口へ向かって、一列に続いている。浜寄りの砂の区間だけ、同じ模様が点々と残っていた。先の硬い地面には、ほとんど跡がついていない。反対向きの跡は、見える範囲にはなかった。
波に削られた跡とも違う。かかとの四角いへこみが続いていて、その先が細く伸びている。おれの靴底とは違う模様だ。波の届かないところは輪郭が残っていた。
「こんなところ、誰が歩いたんやろ」
口に出してから、潮の道を使う人はいると思い直した。けれど、こんな早い時間に見かけるのは珍しい。カメラを少し高く向けると、海際に白いものが見えた。袋のようだった。少し離れたところに人もいる。シャッターを押すと、その人は岩の向こうへ見えなくなった。
おれは岩の向こうをしばらく見たが、人影は現れなかった。撮った写真を画面で拡大しても、顔までは分からない。袋が何なのかも、小さすぎて見当がつかなかった。
画面を見ているうちに、砂の写真が少し暗いことに気づいた。もう少し明るい場所を探し、乾いた浜を端のほうへ歩いた。石垣の張り出しを回ったところに、貝殻が集まっている。しゃがむと、潮の道の入口も石敷きの道も、石垣の陰になった。
教わった操作を思い出しながら設定を変え、貝殻を何枚も撮り直した。画面と足元を交互に見て、同じ貝の殻でも明るさが変わるのを、しばらく確かめていた。
もとの場所へ戻ると、海際の白い袋も人影も見えなくなっていた。おれは初めに見つけた靴跡へカメラを向けた。跡を踏まないよう脇へずれ、近いところと、道の先まで入れた写真を数枚撮る。
岩の向こうへ続いているのか確かめたかったが、ここからは見えない。無理に近づかず、浜と道が一緒に写る写真をもう一枚撮った。
足元を確かめながら浜を上がった。漁協へ寄れば、帰りの港を撮れる。浜で写真を撮っているうちに、定置網船が出る五時は過ぎていた。いつもなら、南の沖へ回る船の姿が小さく見える。
ところが、漁協の前には人が集まっていた。
「七時って、誰が書いた!」
大島権蔵さんの声だった。古くから漁に出ている人で、港のことになると声が大きい。黒板の前で腕を組み、横にいる組合の人へ何か言っている。
漁協の入口には、出港予定を書いた黒板が掛かっている。今朝の定置網船の欄は『7時』だった。
「今日、五時やったろ?」
おれが言うと、権蔵さんが振り向いた。
「そうたい。船長が来たときには七時になっとった。じゃが、昨夜までの予定は五時。船長が確かめて、そのまま五時に出た」
「じゃあ、遅れんかったと?」
「一分も遅れとらん。船も人も支度ができとったからな。だが、勝手に書き直すやつを放っとけるか」
権蔵さんは黒板の7を指で示しかけ、指先を途中で止めた。
「この時刻を見て、氷を積む人も、船を見送りに来る人もおる。今日は船長が確かめたからよかったが、誰も気づかんかったら、どこで行き違うか分からん」
船が出たなら終わりだと思っていたおれは、黒板をもう一度見た。漁の準備をしていた人たちの顔が、どれも険しい。
おれも前の夕方、この黒板を見た。澪と港を通ったとき、早起きして写真を撮りたいから、定置網船が何時に出るか確かめたのだ。確かに『5時』だった。澪は「起きられる?」と聞いた。おれが「船より先に浜へ行く」と答えると、あきれたように笑っていた。
近くの人が「昨日、その二人が黒板を見よった」と言った。振り向くと、澪が港へ下りる坂から歩いてきた。澪とは登校前にここで会う約束をしていた。今朝の写真は学校で見せるつもりだった。
「どうしたの?」
「黒板が七時になっとる。ほんとは五時なのに」
澪が黒板を見上げたところで、権蔵さんが一歩前へ出た。
「おまえたち、昨日の夕方、ここにおったそうじゃな」
「おったよ。船の時間を見よった」
「誰かに頼まれて数字を直したんじゃなかろうな」
問いかける声は大きく、周りの人もこちらを見た。
「そんなこと、するわけなか!」
言い返したら、余計に声が大きくなった。黒板を見ただけで疑われるなんて、納得できない。
「五時と書いてあったのは覚えています」
澪は黒板から目を離さずに言った。
「帰る前に航と一緒に確認しました。でも、それから誰が来たかは知りません」
「じゃあ、帰ったあとどこにおった?」
権蔵さんの声に、澪が顔を向ける。
「受け入れ先の家です。夕食を一緒に食べたので、家の人に確かめてもらえます」
「おれも家。父ちゃんと晩飯食った。朝は浜へ写真ば撮りに行っとったけど、今来たばかりやけん」
権蔵さんは口を結んだ。それでも、おれたちを囲む視線はすぐには消えなかった。澪が鞄の肩ひもを握り直す。おれは一歩前へ出かけたが、何を言えばいいか分からず止まった。
「権蔵さん、二人が黒板を見たことと、書き直したことは別でしょう」
組合の人が間に入った。ちょうど連絡を受けた戸田巡査も港へ来て、黒板を見上げる。
「船長さんは、どうして書き換えだと分かったんですか」
「昨夜、五時に出ると船員に確認していたんです。準備もそのつもりで進めていました。朝、黒板を見て船長が『七時じゃない』と言って、そのまま出ました」
組合の人が答えた。戸田巡査は手帳に書き留めた。
「誰が、いつ書いたのかはまだ分かりません。昨日ここにいただけで決めつけないでください。帰宅した時間や、その後のことは別に確認します」
権蔵さんがおれたちを見た。
「……早まった。悪かったな」
「おれら、何もしとらん」
「ああ。見かけただけで疑ったのは、わしの間違いじゃ」
おれは返事をせず、黒板の『7時』を見ていた。
組合の人が「先に予定を直さないと、ほかの人も間違える」と言って、雑巾を取りに行こうとした。黒板の数字を消すだけなら、すぐに済む。おれもさっきまでは、そうすればいいと思っていた。
「待ってください」
澪の声に、その人が立ち止まった。
「黒板、消す前に写真を撮りませんか。どこが書き換えられたか、あとで確かめられるように」
戸田巡査がうなずいた。
「そのとおりです。まず今の状態を残しましょう。近くのものも、まだ触らないでください」
澪は端末を出した。おれは新見さんのカメラを持っていることを思い出し、一歩引いて黒板全体が入る位置を探した。横からでは光が反射する。正面へ回って、出港予定の欄と、その周りの字が一緒に写るように撮る。
「近くもお願い」
澪が言った。おれは数字を大きく写した。7の周りの黒い板には、こすったような薄い白が残っている。もとの字が何だったかまでは、写真だけでは読めそうになかった。
澪も端末で黒板を撮った。巡査は写真を確認すると、前の夕方に予定を見たときのことを、おれたちに一人ずつ尋ねた。
漁協を出るころには、いつもの朝の声が戻っていた。権蔵さんとは毎日顔を合わせる。明日の朝には何事もなかったように話せるのか、少し自信がなかった。
「腹立たんと?」
坂を上がりながら澪に聞くと、彼女は少し考えた。
「立ったよ。見たってだけで疑われたから」
「なら、もっと言えばよかったのに」
「写真を撮ってからでも言える。消したら戻せないもののほうを先にしたかった」
おれはカメラを握り直した。今朝の浜の写真も、まだ一枚も消していない。砂の上には子島へ向かう靴跡があった。
「船、ちゃんと五時に出てよかったよな」
「うん。七時に変えた人は、予定を知らない人に信じてもらいたかったのかもしれない」
「漁を遅らせたかったんやろ」
澪は首をかしげ、港の外へ目をやった。定置網船は、もう見えない。
「船を遅らせて、その二時間に何かしたかったのかもしれないね」

