ヒジキがもう一度鳴くと、扉の向こうで何かが床に当たった。
「誰かおると?」
おれが声をかけると、引きずる音が止まった。金具の触れ合う音がして、貯蔵室の扉が内側から開く。
「おお、浜崎か。何しとる、こんなところで」
顔を出したのは宮守源治さんだった。袖をまくった作業着に、肩には細かな木くずがついている。
「ヒジキば追ってきたんよ」
「ヒジキ?」
「この猫!」
みのりが指を差すと、ヒジキは源治さんの足に体をこすりつけた。源治さんは「ああ、おまえのことか」と笑って、しゃがんだ。
「こっちじゃクロ助と呼んどる。今日は来るのが遅かったな」
「五つ目だ」と澪がつぶやいた。
「なんの五つ目かね」
「名前です。ヒジキ、クロ、大将、スミ。それからクロ助」
源治さんは猫の頭をなでた。
「本人はどれでもよさそうじゃの」
みのりが「ヒジキにはヒジキがいい」と言ったが、猫はおれたちを見ず、源治さんの足元に座り直した。
「源治さん、この皿、置いたと?」
「ああ。ここを掃除する日は、餌をやっとる。火曜と金曜にな」
おれと澪は顔を見合わせた。
「やっぱり。港でも商店でも、その日は餌をもらえんとよ」
「そうか。じゃあ、こいつは腹が減ると、わしの仕事場まで来るわけか」
源治さんは扉のそばから小袋を持ち出し、皿を起こして猫用の餌を少し入れた。ヒジキは顔を突っ込むと、尻尾の先だけ動かして食べ始める。
「いつも山へ行くから、どこかで迷っとるんじゃないかって、心配だったんです」
みのりが言うと、源治さんはその顔を見た。
「帰り道を知らんわけじゃない。夕方には下へ降りとるよ。ただ、もし来なくなったら知らせておくれ」
「うん。分かった」
みのりは猫の背中を見て、ようやく笑った。
「火曜と金曜にだけ、ここでご飯をもらえるって覚えたんだね」
「賢いんか、食いしん坊なんか」
源治さんが笑うと、ヒジキは顔を上げた。餌がまだ口の横についている。みのりが取ってやろうと手を伸ばすと、猫はひょいと顔をそむけ、また皿へ戻った。
「中で何か倒したん?」
「棚を動かしよった。古い板は重たくての。もう少しで終わる」
扉は人ひとり通れる幅に開いたままだった。薄暗い室内には、端をすり減らした木の棚があり、その脚の脇に細い掃き寄せの筋が残っていた。
「見てもよか?」
「入口からならな。中は道具が散らかっとる。そっちの古い防空壕には絶対に入ったらいかんぞ。奥は危ないけん、柵で閉めてある」
おれたちは敷居の外に並んだ。みのりもおれの横から中をのぞく。
貯蔵室の壁は補修してあって、古いコンクリートのところと色が違う。天井の隅にほこりが残り、床には新しく掃いた筋がついていた。棚は横の壁に寄せられ、奥の壁際に空きができている。箱をひとつ置けそうな広さだった。
おれが以前ここをのぞいたときは、古い道具が扉近くまで積んであった。床なんてほとんど見えなかったはずだ。今日は壁沿いに道具が寄せられ、足元までよく見える。
「何か入れると?」
おれが聞くと、源治さんは棚のぐらつきを手で確かめた。
「神社の物を、少しずつ整理せんといかん。今年はいろいろ話があってな。古い道具を売るかどうかまで、みんな言い出しとる」
「ここにある物も?」
「まだ何も決まっとらん。まず、何があるか確かめんと」
「源治さん一人でやるん?」
「今日はな。大勢でやる前に、壊れたものや使えるものを分けとる。おまえらも、古い棚は無理に持たんほうがええぞ」
そう言いながら、源治さんはさっき動かしていた棚の脚を、木切れで支え直した。おれにはまっすぐに見えたが、手を放して少し揺らすと、まだぐらついた。
源治さんはほうきを持ち、敷居の内側に落ちていた木くずを外へ掃き出した。おれたちの靴の前まで来たので、三人で一歩下がる。
「この床、ずいぶんきれいになっとるね」
「雨が入り込んでから、しばらく放っといたけん。棚をどけると下がひどいもんじゃった」
そう言って、源治さんは棚の横から古い釘を一本拾い上げた。
「こんなのが落ちとる。中に入れんと言うたのは、そのためでもある」
澪は釘を見てから、室内の奥へ目を戻した。棚の上や隅を眺めているというより、入口と奥の壁の距離を測っているようだった。
「これ、昔から貯蔵室だったんですか」
「昔は今みたいな部屋じゃなかった。壕の入口の脇を、あとから直したんじゃ」
「いつごろ?」
「ずいぶん前。何度か手を入れとるよ」
澪は手帳を出し、挟んであった黄ばんだ地図を開いた。源治さんはほうきを持ったまま、その紙を見た。
「おまえさん、その地図は」
「ここが、今の道だと思うんです」
澪は古い石垣の位置を指した。貯蔵室を示すような小さな四角が、その先にある。
「この四角い印、古い貯蔵室でしょうか」
「どうじゃろう。今の建物の形と同じかは分からん。描いた人に聞ければええが」
澪は四角い印の下にある短い線を、爪の先でたどった。
「昔はこの辺に道が分かれていたんですよね」
「そうじゃ。今は草に埋もれとるが、石段があった」
「航にも聞きました。ここへ来る道の曲がり方が、地図と似ていたので」
源治さんが紙に顔を寄せる。
「線の引き方が、変わっとるな。岩と道だけは、やけに細かい」
「そうですか」
「誰が描いたんかね」
澪は指で地図の折り目を押さえた。
「前に、島に住んでいた人のものです」
「ほう。そうか」
源治さんはそれ以上聞かず、ほうきを壁に立てかけた。澪はまだ紙をしまわない。
「澪、その道なら、神社の裏を回るほうにも石段があるよ」
「うん。あとで教えて」
澪は初めて顔を上げた。地図には、今は通れない細い道がまだ先まで続いている。
みのりが腕時計を見て、「お母さんが帰る時間だ」と言った。ヒジキは餌を食べ終え、皿の横で顔を洗っている。
「帰ろう。もう探さなくてよかろ?」
「うん。源治じいちゃん、ヒジキよろしくね」
「わしが来る日はな。ほかの日は、ほかの家で食べるじゃろ」
源治さんが皿を片づけると、ヒジキは名残惜しそうにその手を追ったが、やがて石垣に跳び乗った。みのりは猫に向かって手を振り、先に坂を下りていった。
おれたちも帰ろうとしたとき、源治さんが澪を呼び止めた。
「篠宮さん。前に坂道で会ったな。あのときの、お守りはまだ持っとるかね」
澪の手が、手帳の端で止まった。
「持っています」
「どこで手に入れたものか、聞いてもええか」
「古道具屋で……」
言いかけたところで、澪は口を閉じた。手帳から下がった小さなお守りを指で包む。
「いえ、家にあったものです。詳しいことは分かりません」
「そうか。古いもののように見えたけん、つい聞いてしもうた」
源治さんはお守りから目を離し、貯蔵室の扉を閉めた。鍵をかける音が、石垣に小さく響いた。
澪は手帳を鞄に戻した。おれのほうを一度見たけれど、何も言わない。
古道具屋で買ったのか、家に置いてあったのか。聞けば答えてくれるかもしれない。けれど、さっき口をつぐんだ澪の顔を見ていたら、今はやめておこうと思った。
「坂、こっちやね」
澪が歩き出したので、おれも続いた。
曲がり角まで下りたところで、カメラを肩にかけた新見さんと会った。道端の小さな花を撮っていたらしく、膝についた土を払って立ち上がる。
「二人とも、こんなところで何してたの?」
「ヒジキのあとをつけとった。みのりが心配しとってね」
「ヒジキって、あの黒い猫?」
「そう。火曜と金曜だけ山へ行く理由が分かったんよ。源治さんが貯蔵室を掃除する日に、餌ばもらいよった」
「へえ、あそこに餌場があるんだ」
「中で棚も動かしよった。片づけの音がして、最初は何かと思った」
新見さんは笑って、カメラの電源を切った。
「写真、撮れたと?」
「小さい花をね。風が止むまで待ったのに、シャッターを押した途端に揺れちゃって」
新見さんは画面を見せてくれた。花は少しぶれていたけれど、背後の葉には夕日が透けていた。
「猫の行き先まで調べたのか。いい観察だね。足元ばかり撮るのも、たまには面白いんだよ」
「写真で?」
「うん。猫そのものが写らなくても、そこにいたって分かるものが残ることがあるから」
新見さんはカメラを鞄へしまい、道を空けてくれた。
「遅くなる前に帰りなよ。山の道は暗くなるのが早いから」
「今日はちゃんと明るいうちに帰るけん」
手を振って別れたあと、坂の途中で澪が振り返った。山の木々に隠れて、貯蔵室はもう見えない。
「島って、昔の道がたくさん残ってるんだね」
「残っとるだけで、通れん道も多かよ。草が伸びたら、入口も分からん」
「でも航は、どこに道があったか知ってる」
「年寄りから聞いた話もあるけどね。昔、父ちゃんに連れていってもらったところもある」
澪は坂の先へ目を向けた。遠くに港の屋根が見える。船はもう出たあとで、岸壁は静かだった。
澪は手帳を鞄の奥へしまい直した。
「航は、島を出るつもりはないの」
「ないよ」
考えるより早く答えていた。
「そう」
澪はそれだけ言って、坂を下りた。おれは一歩遅れて歩き出した。港のほうから、船を係留する金具の音が風に乗って届いた。

