生徒ひとりの島に、ふたりめが来た




 机が二つあることに、ようやく慣れてきた。

 五月になってからは、澪が椅子を引く音を聞いても振り向かない。理科の授業で机を寄せて水の温度を測るときも、おれが温度計を読み、澪が時間を記録する。交代したら、澪のほうが温度を読むのが早かった。

「まだ数字が動いとるよ」
「止まってから読むの?」
「そう。さっき先生が言いよった」

 澪は記録欄を一つ空けて、温度計を持ち直した。今度はおれが時計を見る番だ。前なら温度計を置いてから時計に目をやっていた。今日は声を掛け合えばよかった。

 記録を見せ合うと、おれが測ったところだけ、数字が不自然に高くなっていた。おれは温度計の先が容器の底についていたことに気づき、もう一度測り直した。澪は消しかけた最初の数字に線を引くだけで、消しゴムを使わなかった。

「間違えた数字まで残すと?」
「どこで間違えたか、後で分かるから」

 提出する紙を二人でのぞき込んでいたら、次の授業の先生が戸口から顔を出した。あわてて机から離れると、澪の筆箱が二つの机の間に落ちた。


 昼休み、寄せた机を元の位置へ戻していると、みのりが教室をのぞいた。

「航兄ちゃん。ヒジキが変なの」
「また人の弁当ば盗んだと?」
「違う。来なくなったの。夕方、商店に」

 ヒジキはみのりが勝手に名前をつけた黒猫だ。誰の飼い猫というわけでもなく、港でも商店でも見かける。商店では夕方になると、店の裏でおばちゃんから魚の切れ端をもらっていた。

「この前は来た。でも、来なかった日もある。山のほうから帰ってきたのは見た」

 みのりは指を折って、来なかった日を挙げた。順番が途中で分からなくなり、澪が紙を一枚出した。

「商店には毎日寄ったの?」
「寄ったよ。お母さんに頼まれた買い物がある日は。でも、見なかった日もある」
「じゃあ、見た日と見てない日を分けよう」

 澪が紙に線を引くと、みのりは身を乗り出して、自分の見た日を一つずつ思い出した。

「先週だけじゃなくて、先々週も覚えてる?」
「学校がある日はだいたい。帰るときに商店の前を通るから」

 澪は曜日を並べて、みのりが見たことだけに丸をつけた。はっきりしない日は空欄になった。

「火曜と金曜、二週続けて山から戻ってきたの?」
「うん。そういう日は、商店の前にいないんだよ」
「猫なんて、気分で歩くけん」
「でも、同じ曜日なら、気分以外にも何かあるかもしれない」

 澪は紙を裏返した。

「航、ヒジキが普段どこを通るか知ってる?」
「たぶん、みのりより知っとる」
「えー、わたしが名前つけたのに!」

 みのりが抗議する横で、おれは鉛筆を借りた。


 放課後、商店のおばちゃんに聞くと、ヒジキは『クロ』という名前になった。

「うちで食べるときはクロたい。火曜と金曜は午後に配達へ出るけん、餌ば置かんのよ」
「その日は猫も来ない?」
「来とるかは分からんね。おらんけん」

 澪は『火・金 餌なし』と書いた。

 港へ続く道にいるおじさんは、同じ猫を『大将』と呼んだ。魚をさばくと寄ってくるくせに、食べ終わると知らん顔で行ってしまうらしい。

「火曜と金曜は、わしが家を空ける日じゃ。魚もやれん」
「家、商店と反対側やろ。ヒジキが先にそっちに行って、それから商店に来よるんよ」

 おれが言うと、澪は書きかけの道に矢印を足した。

 坂の上の家では『スミ』だった。そこのおばあちゃんは庭先へ水だけ出していると言った。塀の上では、当の黒猫が丸くなっている。

「呼び名が四つもあるんですか」

 澪が笑うと、おばあちゃんは首をかしげた。

「神社のほうでは、また別の呼び方しよったと思うが」
「ヒジキが一番似合うのに」とみのりが言い張り、みんなで名前を変えて呼んでみたが、猫はどれにも返事をしなかった。

 おれは学校のほうへ戻る近道を教えた。ヒジキは魚をもらうと、商店の裏の塀から坂へ出る。日なたの石段で寝て、それから南のほうへ歩く。追いかけたことはないが、どの塀を通るかくらいは何度も見た。

「火曜と金曜は、港でも商店でも魚をもらえないんだ」

 澪は聞いたことを書き並べた紙を持ち上げた。

「山に餌があるとは限らないけど、そっちへ行く理由はありそう」
「どこまで行くか、見てみようや」
「走って追いかけたら逃げるよ」
「分かっとる。あいつ、人に追われるの嫌いやけん」


 翌週の金曜、授業が終わってから、みのりと三人で商店の前に寄った。店のおばちゃんは配達に出ていて、裏口には誰もいない。

 ヒジキは港へ下る石段の上で、前足をなめていた。

「ヒジキ」

 みのりが呼んでも耳を一度動かしただけだ。おれたちは少し離れて待った。猫は立ち上がると、商店の裏を通り過ぎ、そのまま南へ歩いた。

「いつもなら、あの塀に上がると」

 おれが示した塀を、今日は見向きもしない。学校へ戻る曲がり角も通り過ぎる。しばらく行くと、猫は草の間へ入った。

「こっち、歩ける?」

 澪の問いに、おれは石の敷かれた道を指した。

「こっちは神社の裏へ出る道。昼は普通に通る。草のほうへは入らんでよか」

 猫の黒い背中が、道の脇の草から何度か見えた。見えなくなったら立ち止まり、また出てくるのを待つ。みのりは先へ行きたがったが、おれが手を上げると足を止めた。

 ヒジキが石垣に飛び乗ると、みのりも同じところへ上がろうとした。

「そこ、上がらんでよか。道から見えるけん」

 おれが止めたところで、石垣の向こうに黒いしっぽがひょいと現れた。

 道の向こうは低い山になっていた。古い石垣を曲がるところで、澪が鞄から手帳を取り出した。以前、山道の描かれた紙を見せてくれた手帳だ。

「今の石垣って、ここ?」

 澪が示した紙には、道のほかに小さな四角と、三つに分かれた線が描かれていた。

「こっちが今の道。この細いのは、もう通れん。昔の道やろ」
「分かれ道はどこにあったの?」
「この先。今は草に埋もれとるけど、石段だけ残っとる」

 澪は地図と石垣を交互に見た。猫がまた歩き始め、みのりが「あっ」と指を差すまで、そこから目を離さなかった。

 ヒジキは山道の終わり近くで、急に足を速めた。

 神社の裏手から少し上がった場所に、小さな建物がある。古い防空壕の入口の脇に造られた貯蔵室だ。防空壕の奥へ続く通路は柵で閉ざされ、近寄らないよう言われている。おれたちが歩いている道から見える貯蔵室のほうは、壁も屋根も新しく直されていた。

 ヒジキはその扉の前に座った。前足をそろえて、木の板をじっと見ている。

「誰かいるのかな」

 みのりが小声で言った。

「分からん。鍵がかかっとるときもあるし」

 扉の横には、空の餌皿が伏せて置かれていた。壁際には枯れ葉が一か所に集められ、まだ乾いていない土の上に、ほうきの筋が残っている。

「掃除したばかりみたい」

 澪が言った。

「ここ、誰が使いよるの?」
「宮守の源治さん。神社の裏も、あの人がよう掃除しよる」
「この建物も?」
「そう。小さいころ、道に落ちた枝ば片づけてもらったことがある」

 ヒジキが短く鳴いた。扉の隙間を嗅ぎ、また腰を下ろす。

「源治さんに餌をもらってるんかな」

 澪はしゃがんで、皿には触らずに眺めた。みのりも隣へしゃがみ、猫が何をするか見守っている。

「ヒジキは誰か待っとるみたいやな」

 おれが言うと、澪はうなずいた。

 澪はもう一度、古い地図を開いた。道の曲がり方を確かめ、貯蔵室の前から石垣を見て、地図の小さな四角に指を置く。

「ここの四角、建物の印だと思う?」
「さあ。古い地図やけん、今と同じとは限らんよ」

 澪は答えず、石垣と扉の位置をもう一度見比べた。おれも扉の向こうを見たが、板の木目が見えるだけだった。

「そろそろ戻ろう。みのりも、暗くなる前に帰らんと」

 おれが声をかけたときだった。

 閉じた扉の向こうで、ごとりと音がした。続いて、重いものを床に引きずるような音が聞こえた。

 ヒジキが立ち上がり、扉に向かって鳴いた。