生徒ひとりの島に、ふたりめが来た




 父ちゃんの海図は、おれが思っていたより大きかった。

 朝、食卓の上に広げると、湯飲みを置く場所までなくなった。父ちゃんは端を指で押さえ、昨日、船を止めていた辺りを示した。

「灯台を見たのは、この辺たい。何か書くなら、上から紙ば重ねろよ」
「分かっとる」

 折り目をつけないよう丸めて持っていくと、学校の門に澪がいた。おれの抱えた筒を見て、手帳を鞄から出す。

「借りられたんだ」
「父ちゃんが、汚すなって」
「じゃあ、汚さない場所で広げよう」

 教室の二つの机をつなげても、海図の角は少しはみ出した。澪はその角に自分の筆箱を置こうとしたが、途中で手を止め、おれに貸してと言ってから置いた。

 海図には入り江や岩場の印がびっしりあった。澪が灯台の記号を見つけ、鉛筆の先を浮かせたまま尋ねる。

「昨日のもう一人の漁師さん、港のどこ?」
「港側って言っただけ。父ちゃんに聞いても、そこまでは知らんて」
「じゃあ、会って聞こう」

 澪は手帳に二人分の欄を作った。時刻、場所、見た光。まだ分からないところは空白にする。おれなら、そこに『たぶん港』とでも書いてしまいそうだった。


 放課後、二人で港へ下りた。

 ちょうど岸壁で道具を片づけていた父ちゃんが、海図の筒を見つけて声を上げた。

「もう調べよるとか」
「昨日のこと、詳しく聞きたいんよ」

 澪が手帳を開いた。おれは岸壁の作業台を借りて、海図を広げた。

「光を見たのは、何時何分ですか」
「夕方。港へ戻る前たい」
「場所は?」
「南の沖」

 澪は二つ目の欄まで開けたまま、鉛筆を止めた。父ちゃんは質問に答えたつもりで、ロープを巻く作業に戻っている。

「父ちゃん、南の沖じゃ広すぎる。タカバのどっち側?」
「ああ。タカバを抜けて、平たい岩の見えるほうにおった」
「赤岩の沖やろ。それなら、あの岩が船の右に見えた?」
「そうそう。そこまで行く手前やな」

 おれが海図の上に紙を重ねて丸をつけると、父ちゃんは丸を少し内側へ動かした。

「時刻は帰り始めるころ。時計は見とらん。ただ、日はもう岬の向こうに沈んどった」

 澪は説明を聞きながら、空いていた欄に書き込んだ。

 港の内側で網を洗っていた漁師にも聞いた。澪が「どこから見ましたか」と尋ねると、「港のほうじゃ」と返ってくる。おれは船の名前を聞いてから、いつもの係留場所かどうかを確かめた。

「違う違う。昨日は氷を積んで、北の防波堤の外に出とった」
「灯台の光は見えたんですね」
「見えた。いつもと変わらんかったぞ」

 その人は、夕食前だったと思うが時刻ははっきりしない、とも言った。澪は『異常なし』ではなく、『一つ多い光は見なかった』と書いた。

 ほかの二人にも聞いてみた。一人は西寄りの海から光を見たが、増えたかどうかは数えていない。もう一人は、南の沖で一つ余分に光った気がすると言った。その場所も、おれが岩場の呼び名を確かめて絞った。

 四人の話が集まるころには、港の影が長くなっていた。

「同じ夕方でも、見た瞬間は違うかもしれんよ」

 おれが言うと、澪はうなずいて、その注意も書いた。

「でも、船のいた場所は、だいぶ分かった」

 待合所のベンチに海図を広げ直し、上に重ねた紙へ印を写す。澪は灯台から、それぞれの印に向かって細い線を引いた。

「余分な光を見た二隻は、灯台から見て南寄りの近い方向にいる。見なかった船は、そこから北へ外れてる」

 澪は二隻の印を指で示した。西寄りにいた船については、光の回数を数えていないので、判断には使えない。

「灯台とは別のところに光があって、南からだと近くに見えたのかもしれない」
「じゃあ、どこ?」
「まだ分からない。港側からの写真があったら比べられるんだけど」

 おれは海図の岬に目を移した。灯台の印は一つだけだ。

「港の写真?」

 頭の上から声がした。

 振り向くと、カメラを首に下げた新見透さんが立っていた。何日か前から島に来ている写真家だ。港で漁師の仕事を撮ったり、小学部の子たちに撮った写真を見せたりしている。

「夕方のなら、昨日、港の外から撮ったよ。何を探してるの?」

 おれが灯台の話をすると、新見さんは「へえ」とカメラの画面を開いた。

「写真じゃなくて短い動画だけど、見てみる?」

 映ったのは北の防波堤の外側から見た海だった。手前を小さな船が横切り、その奥で灯台が光る。新見さんが画面を少し戻して、もう一度再生した。

「ここは、いつもの光だけだね」

 澪は動画の時間表示と、父ちゃんたちが話した夕方の時間帯を見比べた。

「同じころみたい。でも、完全に同じ時刻かは分からない」
「そうだね。僕のカメラの時計も、船の時計と合わせたわけじゃないから」

 澪がもう一度見られるように借りたいと言うと、新見さんは動画のデータを澪の端末へ送ってくれた。それから鞄から薄い封筒を出す。

「今日渡す写真も整理しないと。渡した日も書いておかないと、後で分からなくなるからね」

 封筒の端に『4/7』と書く。7の字には、真ん中を横切る短い棒が入っていた。写真を取り出した新見さんは、魚を持って笑っている父ちゃんを見せた。

「昨日のじゃないけど、これ、渡してもらえる?」
「父ちゃん、こんな顔しとったんや」
「こっち向いてって言ってないときのほうが、いい顔になることがあるからね」

 おれが写真を預かると、新見さんは澪の紙をのぞいた。

「灯台の周り、何か探してる?」
「南からだけ見えた光です」

 澪が答えるより先に、おれは岬の上を指した。

「南からなら、あの見張り小屋が灯台のそばに見えるかもしれん」

 見張り小屋は灯台とは別で、島の南西、岬から少し内陸に入った高台にある。おれは小学校のころ、一度だけ先生と近くまで行ったことがあった。

「窓、海向きやったよな」
「そうなんだ」

 新見さんは海図を見てから、写真の入った封筒を鞄へ戻した。

「確かめるなら、学校の先生と行ったほうがいいよ。あの辺り、道が細いから」


 翌日、借りた海図を父ちゃんに返し、澪が書いた紙を春日先生に見せると、放課後、まだ明るいうちに見張り小屋を調べることになった。先生は小屋の管理をしている人に確認を取り、おれたちを連れて南西の高台へ向かった。

 道の片側には背の低い木が生え、ところどころで海が見える。灯台は西の岬の上。見張り小屋はそこから離れた、もう少し山側の場所に立っている。

「南の沖からなら、向こうとこっちが重なるかもしれません」

 澪は持ってきた紙を先生に見せた。先生は立ち止まり、二つの建物を見比べた。

「ここからはずいぶん離れて見えるね」
「見る方向が変われば、近くに見えます。そこが気になって」

 おれは父ちゃんが教えた岩場の位置を思い浮かべた。あそこから見上げたとき、二つの建物の間に、こんなに山が見えただろうか。

 小屋の中は、乾いた木のにおいがした。海向きの窓には遮光用の板が立てかけてあり、一部分だけ細長く開いている。その後ろに、手のひらほどのLEDライトが置かれていた。

「あれ」

 おれが近づこうとすると、先生が先に窓を確かめた。ライトは灯台の設備とはつながっていない。横のスイッチを押すと、白い光が板のすき間から外へ出た。もう一度押すと、光は一定の間隔で点滅し始めた。

「南の沖の方向だ」

 おれが窓の外を指すと、澪は海図の紙を開いた。

「北の防波堤からは、この板の裏側になる。それに、南の沖からなら、小屋の窓と灯台が近い方向に見えるはず」
「でも、これが父ちゃんたちの見た光かどうかは、まだ分からんやろ」

 おれが言うと、春日先生がうなずいた。

「持ち主に聞こう。勝手に置かれたものかもしれないし」

 先生はライトを消し、遮光板とその位置を写真に撮った。それから連絡を取り、しばらくして新見さんがやって来た。窓辺のライトを見ると、困ったように眉を上げた。

「ああ、それ、僕のです。片づけ忘れてた」
「何のために置いたんですか」

 澪が聞く。

「夜、沖からこの小屋が分かるように撮れるか試したくてね。窓全体が光ると写真が白くなるから、板で幅を狭めたんだ」
「おとといの夕方も点滅させたんですか」
「うん。つけっぱなしの場合と、点滅させた場合を試したよ」
「灯台の光と重なって見える場所があるみたいです」

 澪は、父ちゃんたちの話と海図の線を示した。新見さんは線を追い、何度か窓の外を見た。

「それは考えてなかった。僕は撮るほうからしか見ていなかったな」

 新見さんはライトを消し、板と一緒に鞄へしまった。

「漁師さんを混乱させたなら、謝らないと。教えてくれてありがとう」

 春日先生はその場で、戸田巡査にも見つかったものと新見さんの説明を伝えた。あとで巡査が小屋に来て、先生が撮った写真と窓から見える方向を確かめた。

「灯台とは別の光でも、海から見れば紛らわしいことがあります。次からは、使う前に相談してください」

 新見さんは頭を下げた。戸田巡査は、光を見た漁師にも確かめると言い、澪の紙に書かれた位置を控えた。


 下り道で、澪は書き込んだ紙を折りながら言った。

「航が漁場の名前を聞いてくれなかったら、線が引けなかった」
「おれは、線を引いてもあんなふうに読めんかったよ」
「明日も海図、借りられる?」
「父ちゃん次第やな。今度は何に使うと?」

 澪は答える前に、手帳を開いた。今日の印を書き込んだページの下から、別の紙がのぞいた。黄ばんだ紙には海岸線と、山を越える細い道が手描きされていた。

「これ、誰が描いたと?」
「前に住んでいた人の地図」

 澪は紙を押さえたまま答えた。

 おれは山を横切る一本の線を見た。学校からの道でも、灯台へ行く道でもない。今は草と木に埋もれて、通る人のいないはずの道だった。