真夜中の校則



「……あるよ」

 三番はそう答えた。おれは足を止めたまま、旧校舎の廊下を見た。三番が曲がろうとした先には、明かりの消えた教室が続いている。

「いつ?」

 三番は右袖を引っ張り、補修跡を隠した。

「前に。ここに来たことはある」
「一番、何してんだ!」

 廊下の向こうから大河の声がした。栞たちが待っている。おれがそちらを振り向くと、三番は先に歩き出していた。

「まだ話、終わってないぞ」
「……うん」

 返事だけはしたが、三番は振り返らなかった。その後、おれはメモ帳に『三番 旧校舎へ来たことがある』と書き、その下へ『いつか聞く』と付け足した。

 別棟の窓にいる陸へ三つ目も解けたことを伝えると、陸は窓の向こうで何度も手を振った。四時を迎えるまで、おれは三番にもう一度話しかけようとした。けれど、そのたびに別の言葉を探してしまい、結局聞けなかった。


 翌朝、制服の胸ポケットを探ると、白いハンカチが出てきた。洗い古した布で、名前は書かれていない。誰にもらったのかは思い出せなかった。代わりにメモ帳には、昨夜おれが書いた文字が残っていた。

『三番 旧校舎へ来たことがある』

 その下には『いつか聞く』とある。おれはハンカチを折り直し、紙袋へ入れた。


 昼休み、栞とひよりに図書室へ来てもらった。机には、母さんの許可を得て印刷した家族写真を並べてある。十年前の写真には、まだ四歳だったおれと、制服姿の少年が写っていた。栞がひよりのスケッチ帳を開いた。

 そこには三番の右袖が描かれている。袖口の端に、斜めの糸が何本も走っていた。ひよりは写真へ顔を近づけた。

「こっちにも、縫ったところがあります」

 写真の少年の右袖にも、小さな補修跡が見えた。おれは二つを並べ直した。糸の向きは似ている。縫い直した場所も近い。でも、写真の袖口は一部が少年の手に隠れている。ひよりの絵と、糸の数まで比べられるわけではない。栞がノートに書いた。

『補修跡が似ている』

 その下に『同じ人物かは未確認』と加え、二行を鉛筆で囲んだ。おれは三番のメモを取り出した。

『旧校舎へ来たことがある』

 ひよりは写真の少年を見つめ、スケッチ帳の端に『三番?』と書いた。


 放課後、環が周年展示の資料を整理しているところへ寄ったが、十年前の二年四組の名簿は見つからなかった。

「学校の古い記念誌なら、展示する分があるよ」

 環が箱を指した。

「でも、クラス別の名前が載ってるかはわからない」

 おれは栞と顔を見合わせた。調べるものが、また一つ増えた。


 その夜、目を開けると、教室に七人がいた。窓の向こうには、別棟の明かりが見える。おれはまず三番を探した。あの顔だ。袖口を隠した動きも、古い廊下で交わした言葉も、昨日の夜から続いているようにはっきり思い出せた。三番はおれと目が合うと、小さくうなずいた。

「昨日の続き、聞いてもいいか」
「……あとで」

 それだけ言って、三番は教室の扉へ向かった。大河がため息をつく。

「またあとでかよ」

 おれは返事をせず、教室の黒板を見た。七つの四角のうち、三つが埋まっている。

『イロハ』
『右耳』
『十三段目』

 その下には、新しい文字が現れていた。

『第四の不思議 返されない本』
『本を住所の順に戻し、題の初めを読め』

 廊下の奥では、図書室の明かりがついている。

「今度は本か」

 恭平が言った。おれたちは図書室へ向かった。扉を開けると、紙のにおいがした。いつもの図書室より少し古く見える。窓際の机は木製で、貸出用の台帳には布の表紙がついていた。部屋の中央に、七冊の本が積まれている。栞が一冊を持ち上げた。

「番号がついてる」

 背表紙の下に、三桁の数字が書かれた小さなラベルがある。おれたちは七冊を並べ、書名と番号を確かめた。

分類番号書名
750『ぎゅうにゅうパック工作』
289『えがおの科学者たち』
913『だれも知らない廊下』
031『なぜなに図鑑』
480『かえるの観察ノート』
210『まちのむかしを歩く』
376『がっこうの歴史』

「住所って、本の番号のこと?」

 ひよりが尋ねた。

「そうかもしれない」

 栞が書棚を見回す。三つの棚の前に、白い札が下がっていた。

『A棚 000〜299』
『B棚 300〜599』
『C棚 600〜999』

 その横には、図書委員会の配架表が貼ってある。

『本は分類番号の範囲に合う棚へ。各棚では、左から番号の小さい順に並べます』

 恭平が数字の小さい順に並べようとしたが、環は配架表を指さした。

「番号の範囲に合わせて、三つの棚へ戻すんだよ」
「まず全部の番号を順番に書こう」

 おれはメモ帳を開いた。環がA棚の前で、手を伸ばしたまま待つ。

「一番小さいのは?」
「031」

 ひよりが『なぜなに図鑑』を取った。次は210。その次は289。三冊をA棚に入れる。B棚には376と480。C棚には750と913。環が一冊ずつ背表紙を押さえ、番号を読み直した。

 栞も配架表と棚を見比べた。七冊とも、指定された範囲に小さい順で収まっている。
 おれは三つの棚の前を歩いた。七冊の頭文字を追う。な。ま。え。が。か。ぎ。だ。

「……名前が鍵だ」

 思わず口にすると、栞が振り向いた。

「もう一回、読んで」

 おれは棚を指さしながら、七つの頭文字を続けて読んだ。

「なまえがかぎだ」

 その瞬間、書棚の奥で、かたんと音がした。図書室の明かりが消える。廊下に出ると、蛍光灯がついていた。

「正解だ!」

 大河が声を上げた。環が両手を下ろした。

「よかった。ちゃんと戻せた」

 栞は図書室の扉を振り返る。

「名前が鍵だ、か」
「最後の問題につながるのかな」

 おれが尋ねると、三番が答えた。

「つながるよ」

 全員の視線が三番へ向いた。三番は、いつの間にか図書室へ戻っていた。さっきA棚に返したばかりの『まちのむかしを歩く』をもう一度抜き取り、扉の前に立っている。

「それ、何で持ってるんだ?」

 恭平が尋ねる。

「背表紙が気になって」

 三番は本の背を指さした。そこには赤い布が貼られ、端を黄ばんだ糸で縫い留めた跡があった。

「これ、まだ残ってたんだな」
「何が?」

 おれが聞くと、三番は指を止めた。

「この本。十年前も、この図書室にあった」

 廊下が静かになった。

「十年前?」

 栞が聞き返す。三番はうなずいた。

「おれ、十年前にもここへ来たことがある」

 大河が一歩近づく。

「ちょっと待てよ。十年前って、おれたちがまだ学校にも入ってないころだろ」
「うん」
「じゃあ、お前、いったい何歳なんだよ」

 三番は本を胸に抱え直した。

「……それは」
「二年四組ってのも、十年前の話か?」

 恭平が尋ねた。三番はすぐに答えなかった。おれは、昨夜の廊下での返事を思い出した。

『ここに来たことはある』

 あれは、ただ旧校舎を見学したことがあるという意味じゃなかったのか。

「十年前も、夜に来たのか」

 おれが聞くと、三番はおれを見た。短い沈黙のあと、うなずく。

「来たよ。十年前の七夜に」
「七夜って……同じことをやったの?」

 環が聞いた。

「うん。でも、最初の六問は今とは違った」
「じゃあ、どうして十年前のことを知ってるのに、最初から言わなかったの?」

 栞の声が硬くなった。三番は本の角を見つめた。

「言い出せなかった」
「何で?」
「……また、ああなるのが怖かった」

 栞が一歩近づいた。

「最後に、何があったの?」

 三番は顔を上げた。

「最後も、名前だった」
「名前?」
「七夜目の問題。名前を答えろって」

 おれは図書室の扉を見た。さっき並べた本の頭文字。

『なまえがかぎだ』

 十年前も、最後に名前を答える問題が出た。それだけ知っているなら、少なくとも、今回の問題が何へつながるかは教えられたはずだ。

「それで、答えられなかったのか」

 三番は本を持つ手に力を込めた。

「……うん」
「誰の名前を聞かれたんだ?」

 恭平が尋ねた。

「そのとき夜に残っていた生徒、全員の名前だよ」
「全員?」
「一人でも足りなかったら、だめだった」
「じゃあ、誰の名前が足りなかったんだ?」
「……それが、わからなかった」
「わからないって、問題を見たんだろ?」
「見た。でも……」

 そこまで言って、三番は黙り込んだ。大河が腕を組んだ。

「何かまだ隠してるだろ」

 三番は否定しなかった。

「お前が何者なのか、教えてくれよ」

 おれが言うと、三番は一度だけこちらを見た。口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。

「それをもっと早く聞きたかった」

 栞が言った。三番が顔を向ける。

「十年前に来たことも、最後が名前だったことも。私たち、ここまで手探りでやってきたんだよ」
「……ごめん」
「私たちに言えないことがあるなら、そう言って。でも、知ってることまで黙っていられたら、何を信じていいかわからない」

 三番は何も答えず、本をA棚へ戻した。おれは栞の横に立ったまま、三番を見ていた。夜の教室で三番が自分に投票しろと言ったことを思い出した。あのときも、どうしてそんなことを言うのか、聞かないままだった。

「次は、ちゃんと答えてくれよ」

 三番はしばらく黙ったあと、「うん」と答えた。教室へ戻ると、黒板の四つ目の四角が埋まっていた。

『なまえがかぎだ』

 七つのうち、四つ。あと三つ解けば、この夜の校舎が閉じる。でも、名前を答える問題が最後にあるなら、まだ調べなければならないことが多すぎた。ひよりが窓を開けた。向かいの別棟に明かりがついている。陸が二階の教室の窓に立っていた。

「陸くん!」

 ひよりが呼ぶと、陸は両手を振った。

「四つ解けたよ!」
「本当ですか!」
「うん。あと三つ!」

 陸が窓に手を当てる。その隣の廊下にも、明かりがついていた。おれは目を細めた。ガラスの向こうに、別の人影が見える。一人、二人。全部で五人。前にも見たことのある影だった。けれど、今夜は窓に近づいている。髪形や顔の輪郭が、ぼんやりと見えた。

「……あそこにも、誰かいる」

 栞がつぶやいた。ひよりはスケッチ帳を開いた。昨日までのページには、陸の顔が描かれている。その横に、空いた場所があった。ひよりは窓の向こうを何度も見上げ、鉛筆を動かし始めた。一人ずつ。陸以外の五人の髪形や顔の輪郭を、見える範囲で絵の中へ描き足していった。