目を開けた瞬間、陸の声が聞こえた気がした。理科室で何度も「あの」と呼びかけてきた声。別棟の窓から、扉が開かないと叫んでいた声。昼には、どんなに考えても思い出せなかった。おれは椅子から立ち上がり、教室を見回した。七人。
栞、環、大河、ひより、恭平。それから三番。陸の席には誰もいない。
「四番は?」
ひよりが窓へ走った。向かいの別棟の二階に、明かりがついている。ひよりが窓を開けると、冷たい風が吹き込んだ。
「陸くん!」
窓の向こうで、人影が動いた。陸だった。こちらに気づくと、両手で窓を押した。
「みんな、来たんですね!」
声が届いた。
「大丈夫? 何か困ってない?」
ひよりが尋ねる。
「扉は、まだ開きません。でも、ここにいます!」
おれも窓に近づいた。陸は一度こちらを見てから、ひよりのほうへ手を振った。
「今度こそ、ちゃんと調べるから」
おれが言うと、陸はうなずいた。大河は少し離れたところに立っていた。窓を見ていたが、声はかけなかった。教室の黒板には、七つの四角が並んでいる。一つ目には『イロハ』。残りは白いままだ。その下に、新しい文字が浮かんでいた。
『第三の不思議 十三段目』
『旧校舎二階、窓辺の机に出席札を置け』
教卓の上には、小さな木の札があった。表に『出席』と書かれている。
「三問目だ」
恭平が札を手に取った。
「これを二階へ運べばいいんだな」
「旧校舎って書いてある」
栞が校則の三番目を指さした。
『旧校舎の階段で、十三段目を踏んではならない。』
環が胸ポケットから折り畳んだ紙を出した。昼に写した校舎の図面だ。
「二階へ行く道は、これを使えるかもしれない」
図面には、新校舎と旧校舎が描かれている。新校舎の二階から、旧校舎の二階へ細い渡り廊下が延びていた。
「じゃあ、まず理科室」
おれが言った。恭平が顔を上げる。
「二問目、まだ終わってないもんな」
「うん。今日は開けられるんだろ?」
「やってみる」
恭平は出席札を教卓へ戻した。
理科室には、昨夜の人体模型がそのまま立っていた。台の上には、骨の部品が並んでいる。ひよりが戻した輪の形の部品も、『その他』と書いた紙の上に残っていた。実験台の下には、陸の上履きがそろえて置いてある。ひよりがしゃがんだ。
「これ、陸くんのだ」
片方のかかとに『小日向陸』と書かれている。ひよりは二つの靴を少し奥へ寄せた。踏まれないようにしてから、立ち上がる。
「始めよう」
恭平が人体模型の後ろへ回った。おれは頭の前側を支えた。三番が台座を押さえ、環は部品の位置を確認している。恭平は後頭部のくぼみを見た。縁には、昨夜の工具でついた白い傷がある。その横に、下向きの三角印。
恭平は後ろの覆いの左右へ指をかけた。
「一番、前側を動かさないで」
左側だけが下がりかけたところで手を止めた。
持つ場所を直す。今度は左右が同じだけ下がった。かち、と小さな音がした。
「外れた」
恭平は後ろの覆いを、ゆっくり引いた。昨日、何度も引っ張って開かなかった部分が、あっさり外れた。
「うわ、本当に開いた!」
環が声を上げる。おれたちは頭の中をのぞき込んだ。耳の奥まで見える。図にあった三つの骨のうち、一番奥の場所だけが空いている。
「栞、お願い」
おれが言うと、栞は輪の形の部品を取った。壁の図を確かめ、模型の右耳へ近づける。
「ここだね」
丸い頭の骨、先の曲がった骨。その先に、小さな出っ張りがある。栞が輪の形の部品をそっとはめた。かすかな音がした。頭の中で、三つの小さな骨がつながった。理科室の蛍光灯が、一斉に消えた。
「やった!」
ひよりが声を上げる。廊下には明かりが戻っていた。栞が壁の図の下を指さした。
「これ、アブミ骨っていうんだ」
「何それ」
「今戻した骨の名前」
「そんな難しい名前、知らなくても解けたな」
おれが言うと、恭平は外した覆いを机へ置いた。
「昨日も、図はあったからな」
それ以上は言わず、白い傷のついたくぼみを見ていた。
教室へ戻ると、二つ目の四角が埋まっていた。
『右耳』
「これで二問解決」
環が数えた。黒板には、まだ白い四角が五つ並んでいる。窓の外を見ると、陸のいる教室の明かりは消えていなかった。
「四番、まだあそこにいるんだな」
大河が言った。
「七つ全部解くまでは、帰れないって書いてある」
栞が答える。大河は黒板を見たまま、何も言わなかった。おれは教卓から出席札を取り、胸ポケットにしまった。
「じゃあ、三問目に行こう」
時計は一時を少し過ぎていた。まだ時間はある。でも、昨夜も最初はそう思っていた。
環の図面には、新校舎の二階から旧校舎へ入る渡り廊下がある。陸のいる別棟へ続く道とは別だ。
「夜にも通れるか、確かめよう」
環が言った。
「階段を見れば早いだろ」
大河が前を歩き始めた。
「十三段目を踏むなってだけなんだ。数えりゃいい」
「待って。図面の道もあるから」
「調べてるうちに時間がなくなるほうが怖いだろ」
大河は足を速めた。おれたちは旧校舎の一階へ入った。新校舎と違い、廊下の床は古い木でできていた。歩くたびに、きしむ音がする。壁には昔の学校行事の写真が飾られ、天井近くの窓には細いひびが入っている。
廊下の奥で、階段だけが明るく照らされていた。階段の下には、古びた木の札が掛かっている。
『十三段』
「やっぱり十三段だって」
栞が言った。おれは階段を見上げた。木の階段はまっすぐ二階へ延びている。途中に踊り場はない。手すりの向こうで、二階の廊下が横へ続いていた。
「これ、十三枚もあるか?」
恭平が尋ねた。ひよりがスケッチ帳を開き、下から順に踏み板を数え始めた。
「一、二、三……」
おれも指で追う。四、五、六、七。その上に、まだ板がある。八、九、十、十一、十二。
「十二枚しかない」
ひよりが言った。
「ほらな!」
大河が階段へ足をかけた。
「十三段目なんてないんだよ」
「でも、札には十三段ってあるよ」
環が言う。
「数え間違いか、昔と作りが違うんだろ」
大河は一段ずつ上がり始めた。木の板が、ぎし、ぎし、と鳴る。おれは階段の下から見上げた。最初の板は一階の床より高い。では、最後の板と二階の床は、同じ高さだろうか。
「待って、大河!」
大河はもう十段目まで上がっていた。
「何だよ!」
「上に着く前に、一回止まって!」
「数えてるって!」
大河は十一枚目の板へ足を置いた。おれは手すりをつかんで駆け上がった。踏み外さないよう足元を確かめながら、大河のその先を見た。十二枚目の板がある。さらにその先には、二階の床があった。床は、十二枚目の板より一段高い。
「大河、十二枚目で止まれ!」
「だから、十二枚しかないんだろ!」
大河が十二枚目へ上がった。手すりの向こうに続く二階の廊下を確かめ、こちらを振り返る。
「ほら、もう二階だぞ!」
おれは十一枚目に立ち、その先を見上げた。十二枚目から二階の床へ、もう一度足を上げなければならない。
「上の床が、もう一段高い!」
おれが叫んだ。
「何?」
「板は十二枚でも、足を上げるのは十三回だ!」
大河の右足が、二階の床へ伸びた。そのとき、十二枚目の踏み板と二階の床の間、最後の段差の縦板に、薄い線が見えた。汚れた木の表面に、何かが彫られている。おれは手すりを握ったまま、空いた手でほこりをぬぐった。
『十三』
数字が現れた。
「踏むな!」
おれは大河の制服をつかんだ。大河の体がぐらりと揺れる。
「うわっ!」
反射的に手すりを握り、後ろへ引いた。三番の手も、すぐそばまで伸びていた。おれとほとんど同時に、大河を止めようとしていたらしい。大河の右足が空中で止まった。二階の床までは、あと少しだった。
「……危なかった」
大河がつぶやいた。おれは手すりを握り直した。古い木のささくれが、手のひらをこすった。
「いって!」
手を離すと、親指の下に細い傷ができていた。
「大丈夫か」
三番が聞いた。
「平気。それより、大河」
おれが見上げると、大河は十二枚目の板に立ったまま、最後の段差を見つめていた。
「札の十三段って、そういうことかよ」
大河はゆっくり振り向いた。
「お前が止めなかったら……」
そこまで言って、口を閉じる。三番が一段下り、大河が続いた。おれたちも慎重に階段を戻る。下で待っていた栞は、ひよりのスケッチ帳をのぞき込んでいた。ひよりが描いた階段には、十二枚の踏み板と、一階の床、二階の床がある。
最後の板から二階の床へ上がるところに、ひよりが小さく『十三』と書き込んだ。
「これなら、見ればわかる」
環が言った。大河はその絵を見ていた。
「……助かった。陸がいたら――」
大河は途中で口をつぐんだ。おれも何も言えなかった。大河はひよりの描いた階段から目をそらし、廊下のほうを向いた。
「渡り廊下、探すんだろ」
「うん」
環が図面を広げた。
「新校舎の二階へ戻ればいい。そこから旧校舎の二階へ、渡り廊下がつながってる」
「新校舎の階段なら十三段目を踏んでもいいの?」
ひよりが尋ねた。栞が校則を書いたノートを開いた。
「『旧校舎の階段で』って書いてある。新校舎の階段には当てはまらないはず」
おれたちは新校舎へ戻り、階段を上って二階の西側へ進んだ。図面に描かれた渡り廊下の入口には、窓のついた扉があった。
環が取っ手を握ると、扉は開いた。ガラス窓に挟まれた渡り廊下を渡ると、白い床が古い木の床へ変わった。階段の出口には近づかず、明かりのついた一番奥の教室へ入る。机は壁際に寄せられ、窓辺に一つだけ残されていた。
その机の上には、木の札と同じ大きさの、薄い四角い跡があった。
「ここだ」
恭平が言った。おれは胸ポケットから出席札を出した。
「置くぞ」
栞がうなずく。おれは札を机の上へ置いた。かたん、と木の音がした。その瞬間、教室の明かりが消えた。
「正解!」
環が叫ぶ。廊下の蛍光灯がついた。おれたちは顔を見合わせた。ひよりがスケッチ帳を閉じ、大河が壁にもたれかかった。
これで三つ。今夜の投票はない。おれは窓を見たが、陸のいる別棟は建物の角に隠れていた。
「戻ったら、教えてやろうぜ」
ひよりがうなずいた。出席札は動かさず、そのまま机に残した。
おれたちは教室を出た。廊下には、古い教室がいくつも並んでいる。戸のガラスは曇り、奥までよく見えない。手のひらがひりひりした。三番が隣へ来た。
「手、見せて」
「平気だって」
「血が出てる」
おれが手を開くと、親指の下に細い赤い線ができていた。三番は制服のポケットからハンカチを取り出した。
「使って」
「いいの?」
「いいよ」
白いハンカチだった。何度も洗ったのか、端が少し薄くなっている。おれは受け取り、手のひらに当てた。
「ありがとう」
三番はうなずいた。ひよりがスケッチ帳を開いた。
「三番、ちょっとだけ」
「何?」
「袖、描いてもいい?」
三番が自分の腕を見た。制服の右袖の端に、小さな補修の跡があった。ほつれたところを糸で縫い直したような、古い傷だ。
「これ?」
「うん。さっき、手を伸ばしたときに見えたから」
三番は少し迷ってから、腕を差し出した。ひよりは袖口を描き、その横に『三番 右袖』と書いた。おれは自分の手を見た。ハンカチには、名前が書かれていない。
「これ、返すのいつになるかな」
三番に尋ねる。
「いつでもいい」
「じゃあ、次の夜にでも」
三番は返事をしなかった。おれはハンカチを折って胸ポケットへ入れた。廊下の奥で、どこかの扉がきしんだ。環たちは先に歩き出している。おれも追いかけようとした。そのとき、三番が何の迷いもなく右へ曲がった。そこは、図面にも教室の名前が書かれていない古い廊下だった。
「おい、三番」
おれが呼ぶと、三番は足を止めた。
「そっちは違うぞ」
「……ああ」
三番は振り向いた。おれは古い廊下と、三番の顔を交互に見た。さっきまで、三番は図面を見ていなかった。それなのに、初めて来た場所とは思えない足取りだった。
「お前、ここへ来たことがあるのか」

