窓から入った風が、空席の教科書をめくった。表紙が持ち上がるたび、ひよりの目がそちらへ向く。机の横には手提げ袋がかかっていた。消しゴムのかすが残る机の上も、少し引き出された椅子も、誰かが使っていたようにしか見えない。栞がノートを閉じかけた。
「ここじゃ、落ち着いて読めないね」
おれもうなずいた。
「ひより、あとで図書室に来られる?」
「はい。昼休みなら」
ひよりはスケッチ帳を抱え直した。
教室へ戻る途中、廊下の掲示板に目が止まった。一年生の校外学習の写真が貼られている。並んで笑う生徒たちの顔を眺めても、誰を探せばいいのかわからない。
昼休み、図書室の奥で三人はノートを広げた。栞が『夜に起きたこと』と書き、その下に番号を並べる。おれは鉛筆を受け取り、覚えている順に書いた。
『第二問は解けなかった。四時に開票。四番が三票で選ばれ、別棟の教室へ移った』
投票箱が開き、八枚の紙が浮かんだことは覚えている。四番の数字が光ったことも。けれど、その四番がどんな顔をしていたかとなると、何も浮かばない。栞は昨日の調査ノートを開いた。番号と名前の一覧がある。
『四番=小日向陸』
さらに、ひよりのスケッチ帳にも四番の絵があった。三つの記録を並べれば、夜の教室からいなくなった四番が、小日向陸という一年生だったことはわかる。今朝見た空席も、陸のものなのかもしれない。ひよりはその絵をじっと見ていた。
「この絵、私が描いたんですよね」
「そうだと思う」
「でも……」
ひよりは鉛筆を取り、四番の絵の肩を少し濃くなぞった。
『この人と仲がよかったのかな』
おれは返事に迷った。昨日の昇降口で、ひよりともう一人の生徒に会ったことは覚えている。消しゴムを拾って渡す女子の姿も思い出せる。でも、渡された相手の顔はない。ひよりは絵を指で押さえた。
『自分で描いたのに、知らない子の絵みたい』
栞が鉛筆を握り直した。
『今夜、陸くんに声をかけよう』
ひよりはうなずいたが、絵から目を離さなかった。おれはノートの余白に、投票用紙の四角を描いた。昨夜、自分が何も書かなかった四角だ。そこへ栞の鉛筆が伸びてきた。
『私も白紙だった』
その下へ、おれは『おれも』と書いた。ひよりは二人の文字を見てから、自分のノートを開いた。
『私も』
三人とも、顔を上げなかった。しばらくして、栞が新しいページに『昼の観察』『夜の記憶』『物品・記録』の三つの欄を作った。おれは『小日向陸』の隣へ、『四番。救出が必要』と書いた。
ひよりはスケッチ帳に書き足した。
『このまま持ってる。夜に見せたいから』
午後、恭平が理科準備室へ行くと言い出した。
「模型のことで、先生に聞きたいことがある」
おれもついていった。理科準備室には、教科書の写真で見るような人体模型が置かれていた。夜に見たものと、頭の形や継ぎ目の位置がよく似ている。恭平は担当の先生に、模型の頭部を外せるか尋ねた。
「これ、開くんですか」
「開くよ。どうした、急に」
「こういう継ぎ目のある模型って、どうやって開けるんですか。壊さずに外す方法を知りたくて」
先生は模型を作業台へ移した。
「古い教材は固くなってるからね。無理に引っ張ると割れるよ」
先生は頭の前側を片手で支え、もう片方の手で後ろの覆いの左右に指をかけた。
「ここを見てごらん」
くぼみの横に、小さな三角印がある。
「下向きだ」
恭平が言った。
「そう。頭全体を下げるんじゃない。この後ろの覆いだけを、印の方向へ少しずらすんだ」
先生が両側をそろえて下へ動かすと、かち、と音がした。それから後ろへ引く。頭の後ろ半分が、すっと外れた。
「うわ、開いた」
おれが身を乗り出す。耳の奥まで見える。小さな部品がいくつも並んでいた。
「工具を差したりしないんですか」
恭平が尋ねた。
「この型なら必要ないよ。片方だけ引っ張ると、反対側が引っかかるから気をつけて」
恭平も模型に手をかけた。最初は右側だけが浮いたが、先生の声で持ち方を直すと、後ろの覆いが外れた。
傷をつけないように戻してから、恭平はノートに頭の絵と矢印を描いた。
『後ろ半分だけ下へずらす。左右同時。留め具が外れたら後ろへ』
おれは『工具で押し込まない』と書き足した。
恭平の鉛筆が止まる。
『左が浮いたから、開きかけたと思った』
おれは何も書かなかった。恭平はもう一度、自分の手で開け閉めしてから、先生に礼を言った。
放課後、環が周年展示の資料を調べているというので、図書室へ寄った。栞はすでに来ていた。展示委員の仕事を頼まれたらしく、古い紙を袋へ入れている。
「また手伝い?」
「今日中に返す資料があるんだって」
「それ、おれが持つよ」
「ありがとう。でも、あと少し」
栞が袋を抱え直した。環は資料の箱から、大きな図面を取り出していた。
「新校舎と旧校舎の、増築したあとの図面があったの」
環は原図に薄い紙を重ね、定規を当てて写していた。旧校舎の階段の印は見つかったが、ほかの細い線は読みにくい。
「ここ、あとで確かめたい」
環が丸をつけた端に、『渡り廊下』とあった。
帰宅すると、母さんが台所にいた。
「母さん、古いアルバム、また見せてもらっていい?」
「いいわよ。何か調べてるの?」
「うん。前に見つけた写真のこと」
母さんは手を拭き、居間の棚から分厚いアルバムを出してくれた。おれは机の奥の封筒も持ってきた。母子手帳の表紙を写した紙。古い家族写真。何度も見たものだ。母さんがアルバムを開くと、写真の角を留める透明なシールが黄ばんでいた。
おれは、四歳くらいのおれと制服姿の少年が写った写真を指さした。母さんはしばらく眺めたが、撮ったことも、少年のことも思い出せなかった。母子手帳に残る『朝日一真』という字だけが、兄だった人の名前を教えてくれた。
アルバムには、同じ少年が写った写真がほかにもあった。ひとりで自転車にまたがっているもの、運動会らしい写真、家の玄関の前でおれと並んでいるもの。母さんは一枚ずつめくった。
「整理しようと思ったこともあるんだけどね」
「捨てちゃおうと?」
「ううん」
母さんは首を振った。
「捨てる気にはならないの」
おれは写真の端に書かれた日付と、少年の服装をノートに控えた。一真が写った写真は、十年前の日付のものが一番新しかった。母さんに許可をもらい、必要な写真を携帯電話で撮る。
写真をアルバムへ挟み直し、母子手帳の複写も封筒へ戻した。栞に連絡すると、夕方なら寄れるという返事が来た。栞が来る前に、撮った写真を家のプリンターで印刷した。
栞が来たとき、母さんはお茶を出し、居間を離れた。おれは印刷した写真と母子手帳の複写を並べた。
「兄の写真は十年前で途切れてる。そのころ兄は十四歳で、おれが四歳」
栞は家族写真を手に取り、少年の顔とおれを見比べた。
「少し似てるね」
「そりゃ、兄弟だったら似るだろ」
言ってから、写真を見た。そういう人が家にいたはずなのに、声も話し方も思い出せない。
栞はノートを開いた。
『三番 二年四組』
その下に、兄の名前を書き加える。
『朝日一真』
おれは二つの記録を見比べた。三番は二年四組だと言った。十年前なら、四組があったのかもしれない。でも、それだけで同じ人物だとは言えない。栞もその二つの記録を線で結ばなかった。
『写真の少年と三番が同じか、まだわからない』
おれが書くと、栞は横に『学校の昔の名簿を調べる』と加えた。そのとき、栞の携帯電話が震えた。環から写真が届いていた。図書室で写していた旧校舎の図面だ。写真の下には、メッセージもあった。
『写した図面も折って、制服のポケットに入れたよ』
栞が画面を大きくする。さっきは読みにくかった細い線が、はっきり見えた。環は建物ごとに名前を書き足している。
『新校舎 二階』
『旧校舎 二階』
その二つの間を、細長い通路が結んでいた。おれは画面へ顔を近づけた。
「これ、階段じゃないよな」
栞は何も答えず、通路の端を指さした。新校舎の二階から伸びた線が、旧校舎の二階へつながっている。旧校舎の階段を一段も上らずに、旧校舎の二階へ入れる道が、図面に描かれていた。

