時計は三時五十八分。あと二分しかない。
「まだ頭を開けてないだろ!」
おれは模型を支えたまま言った。
「開かなかったらどうすんだよ!」
「だから、今やってる!」
恭平が工具の先端を小さなくぼみに当てた。かち、と音がする。けれど、頭の継ぎ目は動かなかった。
「貸して」
三番が手を伸ばす。
「待て。先を曲げると使えなくなる」
恭平は工具を離さない。
栞が二人の間から模型をのぞき込んだ。
「一度、首のほうを確かめて。ここだけ引っかかってるの、変だよ」
おれは頭を支え直した。
大河がもう一度、机をたたく。
「聞いてんのか! このままじゃ全員が選ばれるんだぞ!」
「聞いてるよ!」
環が答えた。
「でも、まだ時間がある。最後まで――」
「最後までやって、間に合わなかったら?」
環は口を閉じた。
そのとき、三番が伸ばしていた手を引っ込めた。
「三番に入れてくれ」
おれは顔を上げた。
「え?」
「投票するなら、おれの番号を書けばいい」
理科室が静かになった。
三番は模型の横に立ち、みんなを見回した。
「ほかの誰かを選ぶより、そのほうがいい」
「なんで?」
栞が尋ねた。
「おれなら、平気だから」
「平気って、別室へ連れていかれるんだぞ」
おれが言うと、三番はうなずいた。
「わかってる」
「なんで、お前だけ平気なんだよ」
大河が紙を握りしめた。
「お前、最初からおかしいんだよ。二年四組とか言ってるし、別棟のことも知ってたみたいだし」
三番は何も答えない。
「選ばれたらどうなるか、知ってるんだろ。知ってんなら言えよ」
「……今は、おれの番号を書いてくれればいい」
「理由も言わないやつの言うとおりにできるかよ!」
大河が声を荒らげた。
三番は口を開きかけ、おれを見た。それから、また目を伏せた。
時計の秒針が進む。
三時五十九分。
「待って。まだ投票しないで!」
栞が叫んだ。
おれは模型の頭を持ち上げようとした。ほんの少し動いた気がしたが、継ぎ目は開かない。
大河が四番の陸を指さした。
「おれは四番にする」
「ちょっと待てよ」
「四番はほとんど見てるだけだっただろ」
陸が顔を上げた。その手は、まだ模型の台座に添えられている。
「違う、陸は耳に気づいてた」
「だったら、なんでもっと早く言わなかったんだよ」
大河の声に、陸の肩が縮こまった。
「言おうとしてた」
おれがそう言うと、大河は眉をひそめた。
「だったら聞けばよかっただろ」
言い返す言葉が出てこなかった。
「四番だって、調べてたよ」
栞が言った。
「それで四番にするのはおかしい」
「じゃあ、誰にするんだよ! お前が決めるのか?」
栞は大河を見たまま黙った。
おれも、自分の投票用紙へ目を落とした。
「もう時間がない!」
環が時計を見上げた。
恭平は工具を置いた。
「このままじゃ間に合わない」
「だから四番でいいだろ」
大河が言った。
環は投票用紙を見つめた。
「……誰も出さなかったら、全員なんだよね」
「そうだよ」
栞が答える。
「でも、白紙で出せば、全部の票が無効になるわけじゃない」
用紙には『選ぶ者の番号』とある。その下に、空っぽの四角が一つ。陸は模型の台座から手を離していた。ひよりが近づき、何か言いかけたが、陸は首を振った。
三番が机へ向かった。
「おれは三番に入れる」
そう言って、自分の用紙に数字を書いた。
大河も鉛筆を走らせた。四番。
環が迷った末に用紙を引き寄せる。
「ごめん。全員が選ばれるのは……」
最後まで言わず、数字を書いた。
恭平も四番を見た。
「ほかに決められないなら、四番にする」
「八番まで!」
栞の声が震えた。
「まだ何も決まってないでしょ!」
「もう時間がないんだよ!」
恭平は書き終えた紙を折った。
陸が投票用紙を机に置いた。六、と書かれているのが見えた。大河の番号だ。
おれは自分の紙を見つめた。
三番と書けばいいのか。本人はそうしてくれと言っている。でも、どうして平気なのかは話してくれない。六番と書くこともできる。そうしたら陸を守れるのか。誰が何票になる。最多が同じなら、二人とも選ばれる。
鉛筆を握る指に、力が入った。
もう、考える時間がない。
栞は何も書かず、紙を折った。
ひよりも白紙のまま、投票箱へ歩いていく。おれは鉛筆を置いた。空欄のままなら、誰の番号にも線を引かずに済む。そのことに、少しほっとした。
「一番、早く!」
環に呼ばれ、おれは紙を折った。
みんなが教卓へ集まる。木の投票箱に、一枚ずつ用紙を入れていった。
最後はおれだった。
箱の細い穴に、白紙を押し込む。指から紙が離れた。
そのとき、四時の鐘が鳴った。
ごおん。
低い音が、理科室の床を震わせる。
おれは振り向いた。人体模型は、さっきと同じ姿で立っている。右耳の中には小さな骨が二つ。余った一本は、ひよりの手の中だ。鐘が鳴り終わると、投票箱のふたがひとりでに開いた。
八枚の紙が浮かび上がる。
「うそ……」
環が後ずさった。
紙は空中で広がり、一枚ずつ黒板の前へ並んだ。白紙が三枚。三番と書かれたものが一枚。六番が一枚。そして、四番が三枚。
問題文の下に、新しい文字が浮かぶ。
『有効票 五票』
『三番 一票』
『四番 三票』
『六番 一票』
『白紙 三票』
四番の数字だけが、白く強く光った。
『選出 四番』
「待って!」
栞が黒板へ走った。
「まだ答えはわかってるの! 頭を開けられなかっただけで――」
黒板の文字は変わらなかった。
八人いたのに、三枚で決まった。
「陸!」
おれが叫ぶと、陸は顔を上げた。
何かを言おうとして、口を開く。声は聞こえなかった。陸の制服の輪郭が、ぼんやりと薄くなり始めた。
「おい、待てよ!」
大河が一歩踏み出す。
陸は自分の腕を見た。袖が透け、向こうの実験台が見えている。
ひよりが駆け寄った。
「陸くん!」
差し出した手が、陸の手に届く直前だった。陸の指先が消えた。続いて腕が、肩が、体が薄くなっていく。陸は床に倒れることもなく、そこに立ったまま消えていった。最後に足元の上履きが、左右二つ、ぱたんと床へ落ちた。
「……陸?」
ひよりが床を見つめた。返事はない。
おれは上履きを拾おうとして、手を止めた。片方のかかとに、黒い字で名前が書かれている。
『小日向陸』
昼の昇降口で確かめた名前だった。
「別棟!」
三番が叫んだ。
全員が窓へ向かった。
向かいの別棟。その二階の窓に、明かりがついている。
窓の向こうに、一人の男子が立っていた。
陸だ。
「陸!」
おれが窓を開けると、冷たい空気が流れ込んだ。向こうの陸も、おれたちに気づいたらしい。窓に駆け寄り、何かを叫んでいる。かすかに声が届いた。
「……開かない!」
陸は背後へ振り向き、教室の扉を引いた。何度も取っ手を動かしている。けれど、扉は開かなかった。
「四番! 聞こえるか!」
大河が叫んだ。
陸は窓へ戻った。こちらを見ている。大河の声に答えようとはしなかった。
ひよりが身を乗り出した。
「陸くん、そこにいて! 絶対、迎えに行くから!」
陸が小さくうなずく。
おれは窓枠を握った。
「待ってろ! 次こそ解くから!」
向こうの窓に、陸の手が触れた。小さな掌が、ガラスに押し当てられる。おれは何か言おうとした。でも、何を言えばいいのかわからなかった。
栞が隣に立った。
「二問目を解いても、陸くんはすぐには戻れないんだよね」
「……七つ全部、解かないと」
教室を出たとき、黒板は一つ目の解答欄しか埋まっていなかった。
まだ六つも残っている。
「一番」
三番に呼ばれた。
おれが拾いかけていた陸の上履きを、三番が見ている。
「その靴、置いていこう」
「でも、陸のだぞ」
「ここに置いておけば、次に来たとき見つけられる」
おれは上履きをそろえ、実験台の下へ置いた。ひよりが輪の形の部品を台に戻す。模型の右耳は、まだ空いたままだ。
環が小さな声で言った。
「私、四番に入れた」
誰も答えなかった。
「全員が選ばれるのが怖くて。誰かに入れなきゃと思って……」
環は言葉を切った。
恭平が顔を伏せる。
「おれも、四番だった」
大河は窓の前から動かなかった。
おれは陸のいる窓を見上げた。向こうでは、陸がまだガラスに手をついている。
おれの投票用紙は白紙だった。
だから陸に入れていない。
そう言いかけて、やめた。
白紙にすれば誰も選ばずに済むと思って、ほっとした。箱へ入れるとき、陸に票が集まっているのを知っていたのに。ほかの番号を書いたら、どうなったのだろう。黒板の三票を見ても、今のおれには答えが出なかった。
「おれも、ちゃんと聞けばよかった」
声に出してから、壁の図を見た。右耳についた小さな鉛筆の印が、そのまま残っていた。
栞が上履きのほうを見る。
「陸くん、最初から耳を見てたよね」
「うん」
おれは答えた。
陸が話しかけたとき、おれは脚の骨を支えていた。すぐ終わると思って、あとにした。
三番が理科室の時計を見た。
四時を少し過ぎている。
あの鐘が鳴ったのに、まだ帰っていない。窓の外の陸は、じっとこちらを見ていた。
おれはもう一度、窓へ近づこうとした。
理科室の蛍光灯が、かすかに点滅した。
次の瞬間、おれは自分の布団の中にいた。
手を伸ばすと、掛け布団の端が指に触れた。目覚まし時計は四時を少し回っている。
おれは飛び起きた。
誰かの名前を呼ぼうとした。
けれど、名前が出てこない。
制服も上履きもなく、いつものパジャマを着ている。さっきまで、誰かを助けようとしていたはずだ。なのに、その相手の顔も声も思い出せなかった。
誰のことだった?
おれは机のそばに掛けてあった制服へ手を伸ばした。胸ポケットには、メモ帳と折った紙が残っていた。メモ帳を開くと、夜に書いた文字がある。
『第一 イロハ』
『三番 二年四組』
それから、昼にまとめた記録の紙。
一番から八番まで、昼に調べたことが並んでいる。四番の欄を見た。
『小日向陸』
知らない名前だった。
文字は読める。昨日の昼、自分で確かめたはずの名前だ。でも、誰のことなのかわからない。おれは紙を握ったまま、朝まで眠れなかった。
学校へ行くと、いつもどおりの朝が始まっていた。廊下には生徒の声が響き、教室から笑い声が聞こえる。おれは鞄を置くと、一年生の昇降口へ向かった。
昨日の昼、ここで誰かと話した。
小さなベンチに座り、ノートを開いた。ひよりという女子がいたことは覚えている。もう一人のことだけが、思い出せない。ひよりなら、何か知っているかもしれない。一年生の教室をのぞくと、ひよりが机に座っていた。スケッチ帳を広げ、何かを描いている。
「ひより」
ひよりは鉛筆を止めた。
「あ、朝日先輩」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい」
おれは教室を見回した。
窓際には、誰も座っていない机が一つあった。机の上には教科書が重ねられ、横に筆箱が置かれている。
ひよりはその机へちらりと目を向けた。
「そこ、誰の席?」
おれが聞くと、ひよりは首をかしげた。
「……わかりません」
「同じクラスだろ?」
「そうなんですけど」
ひよりは困った顔をした。
「誰が座ってたのか、思い出せなくて」
おれは机のそばへ行った。
ひよりも、忘れている。
机も、教科書も、筆箱もあるのに。
鞄からノートを取り出そうとしたところで、廊下から栞が来た。
「朝日くん」
栞は息を切らしていた。
「探したよ。教室にいないから」
「栞も、誰か探してた?」
「……うん」
栞は手のひらほどのノートを持っていた。昨日の昼、図書室で使ったものだ。
「私、何か大事なことを書いたみたいなんだけど」
開いたページには、数字が一から八まで並んでいる。
栞の指が、四番で止まった。
『小日向陸』
「こひなた、りく……?」
栞はひよりとおれを見比べた。
「この人、誰?」
おれは胸ポケットから、折った紙を出した。同じ名前を指で押さえ、栞のノートの横へ置く。ひよりが椅子から立ち上がった。三人で、二つの名前を見比べる。
「おれたち、昨日はこの人を知ってたんだ」
声にしても、顔は浮かばなかった。
ひよりはスケッチ帳をめくり始めた。何枚か戻ったところで手が止まる。昨日のピアノの絵と、足元に番号のついた八つの人影。
四番の男子は、小さく肩をすぼめていた。
隣の空席で、窓から入った風が教科書の表紙を持ち上げた。

