真夜中の校則



 栞はノートに書かれた『昨夜』の二文字を見つめていた。
 やっぱり、覚えているんだ。

「なあ、あの――」

 言いかけたところで、栞が口元に人さし指を立てた。教室には、まだ登校してきた生徒が少ない。それでも、隣の席では女子が二人、昨日のテレビの話をしている。栞は自分のノートを開き、何かを書いた。おれの前へ滑らせる。

『五、夜の校舎のことを、昼の世界で口にしてはならない。』

 見覚えのある一文だった。あの黒板に書かれていた七つの校則の一つ。
 おれはその下に書いた。

『書くのはいいのか?』
『口にしてはならない、だから、たぶん』
『間違ってたら?』

 栞の鉛筆が止まった。

『まだわからない。だから声では話さない』

 おれもうなずいた。昨夜は「イロハ」と答えたらピアノが止まった。校則だって、ただのいたずらとは思えない。

『音楽室で一緒に答えたよね』

 栞が書いた。目が合い、どちらからともなく少し笑った。おれは制服の胸ポケットからメモ帳を出した。七つの丸と音の名前も、答えた時刻も残っている。

『第一 イロハ 十二時三十八分』

 自分の字だった。
 その前のページには、もう一つ。

『三番 二年四組』

 おれはその文字を見て、首をかしげた。
 三番。夜の教室には確かに八人いた。けれど、三番がどんな顔だったか、うまく思い出せない。

『三番って、誰だっけ』

 栞はすぐには書かなかった。

『私も、顔が思い出せない』
『二年四組って書いてある』
『今は四組がない』

 それは覚えている。夜中に、誰かがおかしなことを言ったのだ。だからメモした。でも、その相手の顔も声も、どんなふうに立っていたかも、頭の中から抜け落ちていた。

 ページの端には『兄?』とあった。
 おれは鉛筆の先で、その二文字を隠した。何を見てそう思ったのか、まるでわからない。

「朝日、何やってんの?」

 背後から声がして、慌ててメモ帳を閉じた。大河だった。鞄を机に置き、おれと栞を交互に見る。

「朝っぱらから筆談?」
「ちょっと、宿題の確認」

 栞が答えた。
 大河が机に身を乗り出し、おれは慌ててメモ帳をポケットへ戻した。先生が来るまで、栞とはそれ以上話せなかった。

 授業中も、三番の顔だけ思い出せないことが頭から離れなかった。


 昼休みになると、栞がおれの席へ来た。

「朝日くん、図書室で調べたいことがあるんだけど」

 言葉だけ聞けば、ごく普通の誘いだった。

 おれは弁当箱をしまい、栞について廊下へ出た。図書室の奥には、利用者が少ない調べ学習用の机がある。二人で向かい合って座ると、栞は鞄から手のひらほどのノートを取り出した。開いたページには、数字が一から八まで並んでいた。

 栞は知っている五人の番号を指で追い、次のページを開いた。

『四番 小日向陸』

 文字を見て、おれは栞を見た。

『なんで知ってる?』
『上履き。昨夜、みんなが休んでるときに見た』
『名前を聞いたらだめなんだよな』
『本人に名乗らせるのが禁止。ほかの人が名前を読むのは違うと思う』

 校則には、自分の名前を人に伝えるなと書いてあった。他人が靴に書かれた名前を読むことまで禁止されてはいない。
 栞は続けて書いた。

『三番の上履きは、名前のところが古い汚れで読めなかった』
『それも覚えてる?』
『覚えてない。でも昨夜、そう書いた』

 栞は筆箱から、もう一冊、小さなノートを出した。夜の教室で黒板の校則を写したものだ。最後のページに、番号と上履きの様子が短く記録されている。

 三番についての字も残っていた。

『汚れで読めず』

 栞はその文字を指で押さえた。

『私の字なのに、見たことが思い出せない』

 おれは自分のメモ帳を開いた。『三番 二年四組』。こっちも同じだった。

『昼だと三番のことを忘れるのか?』
『校則六に、夜の生徒のことは昼では思い出せないってあった』

 夜の生徒。
 三番がそうだとすれば、いったいいつから夜にいるのだろう。おれがそう書くと、栞は少し考えてから答えた。

『まだ決めつけない。ほかの理由もあるかもしれない』
『確かめる方法は?』
『昼に三番を探す。それから四番と七番も』

 おれはうなずいた。

 チャイムが鳴るまで、二人で知っている顔と番号を整理した。昼の学校でまだ確認していないのは、四番と七番、それから三番だ。三番だけは、名前も顔も思い出せない。

 栞がノートの端に線を引き、書いた。

『今夜も同じ八人なら、昼の記録と照らし合わせる』
『またあそこに行くの?』
『七夜って書いてあったから』

 忘れかけていた。あれは、まだ一夜目だった。


 午後の授業が終わると、栞は展示委員の仕事を頼まれた。

「昨日の続き、お願いできる?」

 宮下先生が資料の入った箱を示す。

「はい」

 栞は即答した。
 おれは横から小声で言った。

「今日くらい断れば?」
「少しだけだから」

 昨日も同じことを言っていた気がする。

「じゃあ、おれは先に一年の昇降口を見てくる」

 栞がうなずいた。
 昇降口には下校する一年生が何人もいた。靴箱の前を通りながら、見覚えのある顔を探す。階段のそばで、小柄な男子が上履きを脱いでいた。四番だ。

「なあ、ちょっといい?」

 声をかけると、男子は驚いたように振り向いた。

「えっ、先輩?」

 おれは制服の名札を見る。小日向、と書かれている。

「小日向くん、だよな」
「はい。小日向陸です」

 本人が昼の学校で名乗った。栞の記録と同じ名前だ。

「ちょっと聞きたいことがあってさ」

 そのとき、陸の後ろから女子が近づいてきた。

「あ、陸くん。これ、落としてたよ」

 差し出したのは、小さな消しゴムだった。
 女子はスケッチ帳を抱えている。七番。

「ありがとう、ひよりちゃん」

 陸が消しゴムを受け取った。ひよりと呼ばれた女子が、おれを見上げた。

「あっ」

 その表情が変わった。
 おれも思わず笑いそうになる。夜の音楽室で、七拍を指で数えてくれた女子だ。

「二人、同じクラス?」
「はい」

 ひよりが答えた。
 これで四番と七番も、昼の学校にいるとわかった。おれは鞄からノートを取り出した。

『少しだけ、話せる? 声では話せないことなんだ』

 陸は文字を読んで、すぐにうなずいた。

 昇降口の隅にあるベンチへ移動する。ひよりも隣へ座った。おれはノートに『今朝のこと、覚えてる?』と書いた。陸は鉛筆を受け取り、返事を書いた。

『覚えてます。ピアノのことも』

 顔を上げて、少し笑う。その下に、もう一行。

『夜の教室で、帰れるって思えてうれしかった』

 おれはその文字を見つめた。
 昨夜の陸は、ほとんどずっとおびえていた。音楽室で紙片を見つけたときも、声が小さかった。それでも、最後には少し笑っていた。

『今日も来ると思う?』

 おれが書くと、陸は迷わずうなずいた。

『たぶん』

 ひよりがスケッチ帳を開いた。

 夜中に描いたピアノの絵があった。七つの数字と、音が鳴らなかった場所。紙の端には、八つの小さな人影も描かれている。それぞれの足元に、一番から八番までの数字が振ってあった。

 ひよりが三番の絵を指で押さえた。

『この三番の人、昼の学校で見かけた?』

 おれは絵を見た。
 髪形も制服も、ほかの人物とそれほど変わらない。けれど、見覚えがなかった。

『夜なら思い出すかな』

 ひよりが書いた。

『わからない。でも、絵は残ってる』

 おれはうなずいた。
 ひよりの絵を見せてもらい、三番の姿を自分のノートにも簡単に写す。似ているかどうかは、今夜確かめればいい。
 陸がノートの端を指さした。

『これ、栞先輩にも見せたほうがいいですか』
『うん。あとで見せよう』

 ひよりはスケッチ帳を閉じ、胸に抱え直した。


 夕方、栞と再び合流した。
 おれたちは図書室の机で、昼に確かめた名前を一つずつノートへ書いた。

『一番 朝日奏太』
『二番 栞』
『三番 不明 二年四組と発言』
『四番 小日向陸』
『五番 環』
『六番 大河』
『七番 ひより』
『八番 恭平』

 三番だけが、埋まらなかった。
 校内でそれらしい生徒を見つけることもできなかった。二年四組も、やはり存在しない。
 栞がノートを閉じる。

『今夜、続きを確認しよう』

 夜に使ったメモ帳が朝にも残っていたので、昼の記録も制服の胸ポケットに入れておくことにした。


 帰宅してから、おれは必要な記録を小さな紙へ写し、メモ帳と一緒にしまった。一夜目は突然だった。今夜は、来るとわかっている。それでも、眠らないわけにはいかなかった。


 目を開けると、教室だった。
 時計は十二時を指している。
 おれはすぐに周りを見た。八人いる。栞、環、大河、恭平。陸とひよりもいる。
 そして、三番。

 その顔を見た瞬間、昨夜の教室で交わした言葉が戻ってきた。二年四組。別棟へは行けないと言った声。四時になる前に教室を出ていった後ろ姿。玄関で、赤いボールを持っていた兄の手も思い出した。おれは胸ポケットからメモ帳を出した。

 『兄?』という二文字を、今度は自分で書いたとわかった。三番は、おれが見ていることに気づくと、先に目をそらした。

「三番」

 おれが呼ぶと、男子が振り向いた。

「何?」
「いや、いたんだなって」

 三番は少しだけ笑った。

 栞がおれの袖を引く。胸ポケットから取り出したノートには、『八人確認』と書かれていた。おれも制服の胸ポケットを探る。折った紙が入っていた。昼に書いた文字もそのままだ。廊下へ出ると、音楽室は暗かった。昨夜あんなに明るかった部屋からは、もう何も聞こえない。

 かわりに、理科室の明かりがついていた。

「今度は理科かよ」

 大河が顔をしかめた。

 環が扉を開けると、アルコールのようなにおいがした。実験台が並び、奥の棚には薬品の瓶や標本が置かれている。教室の中央に、大きな人体模型が立っていた。普通の人体模型よりずっと精密で、頭も手足も細かく分かれている。

 横の台には、取り外されたらしい部品がいくつも並んでいた。
 黒板には、白い文字が浮かんでいる。

『第二の不思議 余った一本』
『余った一本を、空いている場所へ返せ』

「一本って、何のこと?」

 栞が模型を見上げた。

「骨じゃないか?」

 恭平が答えた。

「人体模型なんだから、どこかの骨が余ってるんだろ」

 大河は台の上の部品を数え始めた。

「腕とか脚とか、長いのがあるぞ」
「待って。まず図と比べたほうが」

 環が言いかけたが、恭平はすでに模型の前へ進んでいた。

「これ、かなり細かく作ってある。骨の数も普通の模型とは違うかもしれない」
「だったら全部数えるのかよ」
「まず大きい部品から見ればいい」

 声が重なり始めた。
 おれは陸が模型の横へ回るのを見た。陸は頭の部分を見上げ、何かに気づいたように手を伸ばした。

「……あの、ここ」
「長い骨が余ってるなら、脚じゃねえの?」

 大河の声が響く。

「形だけじゃ決められないって!」

 恭平が言い返した。
 陸の声はかき消された。おれがそちらへ顔を向けたときには、陸はもう手を下ろしかけていた。
 その指の先に、模型の右耳があった。
 耳のすぐそば、頭の表面に細い継ぎ目が見えた。
 陸は何も言わず、手を引っ込めた。