真夜中の校則



 音楽室の明かりは、廊下の暗がりに四角い光を落としていた。

「行ってみよう」

 環が先に歩き出す。おれも続こうとしたが、四番の男子が教室の出口で立ち止まった。

「本当に入るの?」
「入らなきゃ始まらないだろ」

 大河が答えると、男子は一歩下がった。教室を出たときから、ずっと制服の裾を握っている。
 栞が黒板に残された校則を指さした。

「四時までに解けなければ投票になる。調べるなら、全員で動こう」

 環がうなずいた。

「まずは番号で呼び合おう。自分の名前を教えるのは禁止なんだから」
「一番と二番は確認できたね。三番から順番に、自分の番号を確認してくれる?」

 栞の問いに、教室の後ろにいた男子が答えた。

「三番」

 落ち着いた声だった。おれたちと同じ制服だが、襟元が少しくたびれている。明かりの下で見ると、家族写真の兄と同じくらいの年に見えた。兄が今もいるなら、おれより十歳上だ。おれは三番の顔を見ながら尋ねた。

「三番って、何年?」
「二年」
「おれたちと同じか。何組?」
「四組」

 思わず栞と顔を見合わせた。

「今の二年は三組までだぞ。四組なんてないけど、どういうことだ?」
「そうか」
「いや、そうかって」
「一番」

 栞が小さく首を振った。問い詰めるのは後にしよう、という顔だ。今年の二年生は三組までしかない。別の学校から来たなら制服がおかしいし、嘘をついたなら理由がわからない。そもそも、ここは普段のおれたちの学校なのか。

 教室の外は、校舎の形こそ見慣れているが、窓の向こうには街灯の光も見えなかった。おれは胸ポケットからメモ帳を出し、『三番 二年四組』と書いた。

「四番」

 小柄な男子が答えた。続いて環が五番、大河が六番、女子が七番、恭平が八番を確認する。七番の女子はスケッチ帳を胸に抱えたまま、ほとんど顔を上げなかった。

「じゃあ、一番から八番までそろってるな」

 環が数え直した。

「そろってないほうがよかったかも」

 おれが言うと、大河ににらまれた。


 音楽室へ近づくにつれて、妙な音が聞こえ始めた。ピアノだ。たどたどしく、四つの音が鳴っている。同じ短い旋律を、何度も繰り返していた。

「誰か弾いてるのかな」

 四番が小声で尋ねた。

「だったら話が早い。先生かもしれないし」

 おれが扉の小窓からのぞくと、ピアノの前には誰もいなかった。
 それでも音は続いている。
 環が扉を開けた。

 音楽室の蛍光灯は全部ついていた。壁には作曲家の肖像画が並び、窓際に古いオルガンがある。教卓の向こうには黒いグランドピアノ。大きなふたは閉じられているが、鍵盤の上に手はない。

「録音じゃないのか?」

 恭平が言った。

「スピーカーは見えないけど」

 栞が天井を見回す。
 ピアノの鍵盤が、ひとりでに沈んだ。ぽん、と音が鳴る。

「……うそだろ」

 おれの口から声が漏れた。

 隣で四番が息をのんだ。七番はスケッチ帳を開き、鉛筆を握り直している。鍵盤がもう一つ沈む。そのあと、しばらく何も動かない。やがて離れた場所の鍵盤が沈み、最後にもう一つ。

 四つの音が終わると、短い間があって、また最初から始まった。黒板には大きく、白い文字が書かれていた。

『第一の不思議 鳴らない三つの音』
『欠けた三つを、古い音の名で順に答えよ』

 恭平が譜面台の楽譜を取った。七つの音符が、同じ長さで並んでいる。

「ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミ。本当はこの七つを弾いてるんだと思う」

 恭平の説明を聞きながら、おれはピアノをのぞき込んだ。鍵盤はまた、勝手に沈み始めている。

「だったら、どの鍵盤が動いてないか見ればいいじゃん」

 手を伸ばしかけたところで、肩をつかまれた。

「触るなよ」

 大河だった。

「え?」
「勝手に動いてんだぞ。指を挟まれたらどうすんだ」
「そこまで強くないだろ」
「試す必要ないだろうが」

 言われてみれば、そのとおりだ。
 おれが手を引っ込めると、大河は近くの椅子を一脚持ってきた。

「ここからなら見えるだろ。触らずに数えろよ」
「お前、案外慎重なんだな」
「案外は余計だ」

 椅子の背に手をかけ、少し離れたところから鍵盤を見た。最初の音が鳴る。次の音もすぐに続く。そのあと、何も聞こえない時間がある。最後に二つの音。

「最初と最後に固まってるな」

 恭平が楽譜を指で追ったが、どこが抜けているかは、まだわからなかった。環が楽譜を見る二人を残し、ほかの場所も調べようと呼びかけた。

「譜面台の横」

 三番が言った。

「何?」
「紙がある」

 譜面台の脇に、もう一枚の紙が挟まっていた。環が引き抜くと、音楽の授業で使う表だった。
 上に「音の名前」とある。
 ド=ハ、レ=ニ、ミ=ホ、ファ=ヘ、ソ=ト、ラ=イ、シ=ロ。

「日本の音名だ。ドレミとは別の呼び方なんだよ」

 恭平が表を見せた。おれはまたピアノへ耳を澄ませた。最初の二音と最後の二音の間だけが、やけに長い。
 四番が机の下から顔を出した。何か探していたらしい。

「あの……これも、関係あるかな」

 手には小さな紙片がある。表面に「七拍をくり返す」と印刷されていた。裏は白紙だ。

「どこにあった?」
「教卓の下。落ちてた」

 恭平が紙を受け取り、楽譜と見比べる。

「同じだ。七拍で一回。これなら、途中に長い休みがある曲ってわけじゃない」

 四番は少しだけ肩の力を抜いた。

「見つけてよかった」
「うん。助かった」

 栞が答えると、四番はうつむきながら笑った。おれはメモ帳を取り出した。鉛筆で七つの丸を横に並べる。
 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
 七つとも同じ長さなら、鳴らないところでも拍を数え続ければいい。
 おれは最初の丸を指で押さえた。

「じゃあ、七番。ちょっと手を貸して」

 七番の女子はびくっとしたが、顔を上げた。

「音が鳴ったら、指で拍を数えてくれる? ピアノに合わせて、同じ速さで」

 女子はうなずき、スケッチ帳を机へ置いた。
 次の演奏が始まる。

 女子は一本、二本と指を折った。二つ目の音のあとも、同じ間隔で指を折り続ける。三本目、四本目、五本目には、何も聞こえなかった。六本目で、ピアノが鳴った。七本目でも鳴った。

「……三、四、五か」

 おれが言うと、女子は折った指をもう一度見せた。

「もう一回。間違えたらどうなるかも知らないんだぞ」

 大河が言った。
 七番が再び指を折る。今度は大河も机を指先でたたき、一拍ずつ数えた。結果は同じだった。三番目、四番目、五番目に音がない。

「じゃあ、楽譜の三、四、五番目は?」

 おれが尋ねる前に、恭平が答えた。

「ラ、シ、ドだ」
「それを古い名前に直すんだね」

 栞が対応表へ目を向けた。
 おれはメモ帳の丸に、順番に文字を書いた。
 ファ ソ ラ シ ド レ ミ
 鳴らない三つに線を引く。ラ、シ、ド。
 そのまま音名表を見る。ラはイ。シはロ。ドはハ。

「イ、ロ、ハ」

 おれがつぶやくと、恭平が言った。

「そうだ。それだよ」
「えっ、もうわかったの?」

 四番が驚いた声を出した。
 栞は楽譜と対応表を指でたどってから、おれを見た。

「合ってると思う」
「じゃあ、答えてみるか」

 黒板へ向き直ったところで、大河が腕を組んだ。

「待て。誰が答えんだ?」
「誰でもいいんじゃない?」
「本当にか?」

 校則には、不思議を解く方法まで細かく書いていなかった。間違った答えを言ったときのこともわからない。
 誰も口を開かなくなった。

「おれが言おうか」

 三番が言った。

「いや、待って」

 おれはメモ帳を閉じた。

「最初に数えたの、おれだし。間違ってたら、もう一回考えればいいだろ」
「何か起きたらどうすんのよ」

 栞が聞く。

「そのときは……そのとき考える」
「全然考えてないじゃない」
「じゃあ一緒に言う?」

 栞は少し迷ってから、黒板の脇の表をもう一度見た。

「うん。それなら」

 おれたちは並んで黒板の前に立った。
 ピアノはまだ鳴り続けている。ぽん、ぽん。三拍分の沈黙を挟んで、また二つ。最後の音が消えたところで、おれと栞は声を合わせた。

「イロハ!」

 ピアノの鍵盤が、ぴたりと止まった。
 音楽室の明かりが一斉に消えた。

「うわあっ!」

 四番が叫ぶ。七番の鉛筆が床に落ちた音がした。おれは反射的に栞の腕をつかんだ。

「ちょっと、痛い!」
「ご、ごめん」

 真っ暗になったわけではなかった。さっきまで暗かった廊下には、蛍光灯がついている。環が扉を開けると、そこから光が差し込んだ。

「みんな、いる?」

 一人ずつ返事をする。八人とも無事だった。廊下へ出ると、教室のほうから、かすかな金属音がした。
 戻ってみると、黒板が変わっていた。
 夜の校則は消えていない。その下に、白い四角が七つ並んでいる。一つ目だけに、文字が入っていた。

『イロハ』

「一つ解けた。今夜は投票しなくていいはず」

 栞が言った。でも、七つ全部を解くまでは帰れないとある。今夜はこれ以上、問題が出ないはずなのに。

「じゃあ、帰り道を探そうぜ」

 おれは時計を見た。十二時三十八分。

「三時間以上、ここにいるのか? 玄関くらい開くかもしれないだろ」

 環が扉の外を見た。

「行くなら全員で。階段は使わないで、一階だけ確かめよう」

 玄関の鍵は回ったのに、戸は動かなかった。職員室も無人で、壁の電話からは何も聞こえない。非常口の押し棒を大河と押しても、金具が鳴るだけだった。窓の留め具は外れた。

 けれど、開いた窓から身を乗り出しても、あるはずの花壇が見えなかった。校庭の端も、フェンスも、道路もない。足元から先は、一面の闇だった。

「降りるなよ」

 三番が、おれの背中をつかんだ。

「わかってる」

 おれは窓を閉めた。取っ手を握っていた指先が冷えていた。
 教室に戻るころには、一時を回っていた。

 環の提案で教室の机を寄せた。階段の禁則が気にかかり、上の階へ行こうという者はいなかった。おれはメモ帳を開き、答えと時間を書き込んだ。

『第一 イロハ 十二時三十八分』

 その上には、音楽室へ行く前に書いた『三番 二年四組』という文字もある。おれはページの端に、小さく『兄?』と書き足した。三番は窓のそばに立っていた。兄なら、どうして名乗らない。

 名前は禁止でも、弟に声をかけることまで禁じられてはいない。聞けばいいのに、もし違ったらと思うと、声が出なかった。

 窓へ近づくと、向かいの別棟は暗いままだった。最初に明かりがついていた三つの窓にも、人影は見えなかった。


 二時を過ぎたころ、四番が机に突っ伏した。七番はその隣で、鉛筆を動かしている。描いていたのは音楽室のピアノだった。鍵盤の上に数字が七つ並び、鳴らなかった場所だけが白く空いている。

「うまいな、それ」

 おれが言うと、七番はスケッチ帳をこちらへ向けた。

「ここ、間が長かったよね」

 ほとんど初めて聞く声だった。

「うん。そこがわかったから解けた」

 七番は少し笑い、また鉛筆を動かし始めた。環は扉を開けたまま時計の見える位置に座り、栞は校則をメモしていた。三番だけは、ずっと窓の外を見ていた。

 おれは三番の隣へ行った。

「別棟へ行けないって、扉を試す前から知ってたのか? 二年四組っていうのも、どういうことなんだよ」

 三番は何か言いかけたが、窓へ目を戻した。写真の兄は笑っている。目の前の三番は、おれと目を合わせようとしない。


 三時五十分になった。
 大河が時計の下に立ち、秒針を見守る。全員が黒板へ目を向けた。何も起こらなかった。投票用紙も現れない。

「解けたから、投票はないんだね」

 栞が息を吐いた。
 時計の針が四時へ近づく。三番が窓から離れた。

「どこ行くの?」

 おれが尋ねた。

「ちょっと」
「もうすぐ帰れるかもしれないのに」
「……先に出てる」

 三番は教室の扉へ向かった。

「待って。八人そろっていたほうがいいんじゃない?」

 環が声をかけたが、三番は足を止めなかった。

「大丈夫だ」

 それだけ言い、廊下へ消えた。

「何なんだ、あいつ」

 大河が舌打ちする。
 追いかけようか迷っているうちに、時計の長針が真上を向いた。
 四時。
 どこからか鐘が鳴った。一つ、二つ、三つ、四つ。学校のチャイムとは違う、低く澄んだ音だった。四つ目の鐘が消えた瞬間、足元の床がふっと遠ざかった。

「えっ」

 おれは机の端をつかもうとした。指が届かない。天井の蛍光灯が小さくなり、黒板も窓も、いっぺんに遠ざかっていく。


 次の瞬間、布団の中で目を開けた。
 自分の部屋だった。
 目覚まし時計は四時を少し回っていた。窓の向こうには家々の屋根が並んでいる。おれは布団の上で右の袖口を探した。パジャマだった。

 ピアノの四つの音も、栞と声を合わせた答えも、まだはっきり覚えていた。


 そのまま朝まで眠れず、目覚ましが鳴るころには、頭が重くなっていた。朝食の席で、母さんが「顔色悪いわよ」と言った。

「変な夢、見た」
「どんな?」
「……学校の」

 それ以上は言えなかった。

 喉が詰まったわけじゃない。校則の五番目を思い出したのだ。夜の校舎のことを、昼の世界で口にしてはならない。あれが本当なら、ここで話すわけにはいかない。

「学校で何かあったの?」
「いや。数学の宿題が出てきた」
「それは怖いわね」

 母さんが笑った。おれも笑おうとしたが、うまくいかなかった。


 学校へ着くと、教室にはいつもの机が並んでいた。窓の外は明るい。校庭から運動部の声が聞こえる。栞はもう席に着いていた。おれが入ると、顔を上げた。目が合い、栞の表情が変わった。おれは何か言いかけたが、口を閉じた。かわりに鞄からノートを出し、鉛筆を握る。

 栞がこちらを見ている。
 おれは何も言わず、机の上に広げたノートへ『昨夜』の二文字を書く。