その花が咲く頃に

 片付けの後、灯里ちゃんと彼と一緒に庭に出た。

「ねえ! 名無しが二人もいると不便だよね!」
「うるさいぞ」
「せめて貴方には名前があればいいのですが」
「我に」
「ええ。私に名をつけるよりよっぽど利があります」
「なあ、お前が我に名をつけるとしたら、どんな名にする」
「私が?」
「ああ。どうせ薫はつけてくれまい」
「言葉は、誰かを縛る鎖にも、解放する鍵にもなる。名は、祝福で、呪い。そう簡単にはできませんね」
「仮定の話だ。冗談の域であろう」
「そうですね…。強そうで、優しくて、美しいものがいいでしょう。貴方には優しさと強さが同時になくてはいけませんから」
「なぜそう思った」

 なぜ、か。
 出会ったあの日の夜。明確な強者の匂いと同時に優しさの音が鳴った。そんなひと、人間ではあり得ない。
 彼にしかない個性。彼だけのもの。それを名に表さないといけない気がする。
 名無しでは勿体無いほどの力を秘めている。

「それ以外にないと思いました。言うなれば勘です」
「ふっ。そうか、勘か。面白いな、お前」
「僕は〜?灯里じゃなかったら何にする?」
「薫に名付けてもらっておいて違う可能性を聞くとは我を嘲っているのか」
「うるさいなー。興味だよ! お前には関係ない!」
「灯里ちゃんは、灯里が一番お似合いですよ」
「えへへ」
「気色悪い笑い方をするな」
「もう怒った! 今日という今日は許さないんだから! 主〜!」
「やめろ!」

 幼子の喧嘩のよう…。
 これで私より遥かに年上なんて他の人間なら気付きやしないだろうな。

「おいお前、あいつを止めろ」
「はい。灯里ちゃん、あまり大きな声を出しては迷惑ですよ」
「僕悪くないもん!」
「我が悪いというのか。貴様いい加減にしろ」
「……」

 仲がいいのか。悪いのか。
 喧嘩は両成敗だ。

「お前たち…。うるさいぞ」
「ご主人様! 申し訳ありません…」
「また喧嘩か。飽きないのだな」
「主! 今回は僕じゃなくてこいつが悪いの!」
「どうでもいい」

 ご主人様は呆れているのか、大きなため息をついた。
 この屋敷に来てから毎日見ている。流石に呆れるのもわかる。

「ねえねえ主、二人も名無しがいるのは結構不便じゃないの?」
「考えたこともないな」
「ええぇ? 僕は不便!」
「はぁ。勉強の時間だ」
「いやぁ! ねえねえ助けてよ!」
「お前はいつもそう駄々を捏ねる。だからいつまで経っても馬鹿なのだ」
「あぁ〜! また馬鹿って言った! 僕悪くないじゃん!」
「お前らまとめて馬鹿だ」
「ひど〜い!」

 りん
 と柔らかくも耳障りな、異様な音が鳴った。

「?」

 音の方向を振り返った途端、反対にいたはずのご主人様が目の前で私に背を向けていた。
 それに続くようにして、彼と灯里ちゃんが私を囲んだ。
 何事でしょう。

「まさか、私より反応が早いとは。貴様、やはり何か隠しておるな」
「あ、あの…今の音は」
「音?」
「え?」
「音ではない。妖気だ」
「音じゃないね」
「うっ…」

 吐き気がした。
 目の前の色が黒紫に染まった。
 匂いも異様。嗅いだことのない匂い。

「大事ないか」
「穢れてしまいましたね…」
「穢れ…?」

 ご主人様の体越しに、前を見据え、近づいてくる何かを認識した。
 あれは魑魅魍魎の一端…。と言うより、不浄の者。

「灯里、こいつを家の中に」
「りょうかーい! 行こ!」
「わかりました」

 家に上がると、縁側からご主人様達を見る。
 敷居の外から黒い塊が近づいてきた。

「貴様。何やつ」
「主の屋敷へ無断で入るとは無礼にも程があるのではないのか」
『ほっほっほっ。出迎えどうも。妖の主人よ』

 幾つもの音が重なって耳に響く。
 声というより不快な音。
 雑音ばかりで気持ちが悪い。

「貴様! 名乗らぬか!」

 ご主人様の横で彼が叫ぶ。
 ご主人様はとても冷静な表情で相手を見据えていた。

『失礼』

 姿を隠すような黒い霧のようなものが消え、本来の姿であろうそれが現れた。
 老、人?

『お初にお目にかかります。儂の名は斬壬』
「名持ちか」
『ええ。儂はこれでも上位妖怪、ぬらりひょん』
「にしては随分な出向きではないか。老害」

 彼はご主人様を守るかのように前に出る。
 言い方も悪いけれど、相手も相当のようだ。

『ほっほっ。威勢のいい餓鬼じゃのう。たかが小鬼如きが儂に楯突くか』
「なんの連絡もなしに尋ねてくる妖はそのような大口を叩くべきではないのではないのか。斬壬殿」
「薫…!」
「下がれ」

 ご主人様が彼の前に手を出し、熱くなっている彼を制止した。

「なっ…」
『主殿は懸命な判断をなさいましたな。そこの小童。自らの力量を過信していればいつかその身を滅ぼすぞ』
「斬壬殿。本日は何用でここまで」
『噂を予々耳にしまして…。人間にしては異様な女を娶った、と』
「どうだろうか。噂には尾鰭や背鰭がついて行くものだろう」
『その様子、真じゃな』

 ここが見えていないのかな…。

「ふふ。僕の結界の中だから向こうからは見えてないよ!」
「すごいですね…」
「うん! 結界なら、僕が一番強いもん!」
「そっか」

 灯里ちゃんの声はいつも通り明るいけれど、目が鋭く光っている。
 あの老人を敵とみなしているのだと思う。

「真か否かはさておき、ここは貴殿の来るべき場所ではあるまい。お帰り願おうか」
『ほっほっほっ。取引をせぬか』

 どんっ、と空気が重くなった。

「っ!」
「大丈夫? もう一枚結界張った方がいいかな?」
「平気ですよ。それよりも、あのお爺さんの言う取引が気になります」
「そうだね。ここに来て三日しか経ってないのに変だしね」

 私が取引の内容に入るなら、簡単に捨てて仕舞えばいい。
 この家には邪魔な存在で、いつ死ぬかも分からないなら、いっそ今すぐ殺してくれた方がまし。

「内容だけ聞こう」
『儂に娘を差し出すがよい。さすればこの敷居には二度と足を踏み入れまい』
「そうか。ではお引き取り願おう」
『取引に応じぬ、とな』
「当たり前であろう。それ以前に、貴殿が私に取引を持ちかけること自体が不敬極まりない。死にたくなければ帰れ」
「薫! 応じればいいだろう! あの女がここにいる理由など何一つない!」
「…本気でそれを言っているのか。答えろ」

 今度は刺すような殺気を感じた。
 ご主人様は彼の首を掴んで体ごと持ち上げた。

「っ!」
「あぁあ。やりすぎちゃったね」
「なんで、っなぜあのような…。彼の言うことが正しい」
「違うよ」
「え?」
「僕が思うに、主人は君のために怒ってるんじゃないと思う」
「それは一体…」
「だって。自分より弱い相手から持ちかけられた取引に応えるって、要するに降伏を意味するんだよ。だから、今のあいつの発言は、主人の尊厳と威厳を貶したも同然なんだ」
「…ですが…、彼の言う通り、私がここにいる意味など…」
「それ以上は主人に聞いてみてね」

 ふと視線を戻すと、彼は地面に転がって咳き込み、ご主人様は隠しきれない殺気を丸出しにしていた。

「おい」
『応じる気になったかのう』
「今ここで痛みもなく消滅するか、百年かけて苦しみながら消滅するか選べ」
『何を言っておるんじゃ』
「見過ごせぬほどの不敬。その上にいつまでも己が私に勝ると過信している。こやつであればよかったものを、私に喧嘩を売った。であれば覚悟などできているのであろう」
『……』

 逃げそうな雰囲気だな。
 いいのかな?
 ご主人様は逃す気なんてなさそうだけれど…。

「今すぐ散れ」
『娘を差し出せ。その娘は厄災よ』

 空気が悪い。息が苦しい。
 私が、自ら…

「貴様は日常の厄災だ。死ね」

 ご主人様が手を前にかざすと、背後に鬼火が現れ、それが槍に変わる。
 次の瞬間指先の動き1つでお爺さんの胸を貫いた。
 そこからは地獄のような異臭と叫び声と肉の焼ける音がその場の空気をまた汚した。
 お爺さんは跡形も無くなり、灯里ちゃんの結界も解かれた。
 結界がないとさらに苦しい。

「おい、平気か」

 ご主人様はすぐに私のそばに来た。
 けれど、私は答える前に、掌をうえにしてそっと手をあげ、親指と中指、薬指の指先をつけ合わせ、その先に息を吹きかけた。
 小さな蝶が生まれる。そっと庭の中心に歩き、袖で口元を覆う。
 穢れは体に悪いですから。
 生まれた蝶が目の前で飛ぶ。
 両手を真横に広げ、手を打ち合わせると同時に蝶を潰した。

 ぱちんーー

 その瞬間、目の前が光り、穢れを浄化し始めた。
 大量の蝶が舞う。
 それが全て消えた時、息ができるようになった。

「っはぁ……。っ、成功ですね…」
「貴様、その術をどこで知った」
「どこ、と言われましても…。母から教わっただけです」
「母親…」
「物心つく頃に亡くなりました」

 ご主人様の眉がわずかに動く。
 私にとって母の死は過ぎ去ったものに過ぎない。

「そうか」
「はい」

 これと言って追及はされなかった。つまり、興味がないのだろう。
 それでいい。それが普通。

「ねえねえ! 名前ないんだよね!」
「とうの昔に忘れました。呼ばれた記憶がないので…」
「ふむ。では、仮名をやろう。思い出すまでそれを使うといい」
「いいえ。私ではなく、彼に…」
「余計なことを言うでない!」
「す、すいません…」

 彼は名前を持つべきひとだと思う。
 私はそうではない。
 それだけの差。

「柚葉。貴様はこの名を名乗れ。白幸のいない時も何かと都合がよい」
「かしこまりました」

 柚葉。
 嬉しくないわけではない。けれど、私に名前は要らない。
 そう思うと、少しだけ、重く感じた。
 ふと彼をみると、彼は私を睨んでいた。
 当たり前だ。
 突然現れた余所者には名前がもらえて、自分はまだ。
 怒って、恨んで当然。
 嫌われてしまいましたね。

「柚葉! かわいいね! さすがご主人様! ねえ! 喜ばないの? さっきからずっと無表情!」
「嬉しくないわけではありません。ただ、申し訳ないと」
「なぜそう思う」
「長くは居られませんから」
「どういう意味だ」
「いえ」
「まあよい。疲れたであろう。中に戻るぞ」
「はい」

 彼とは、もうお話もできませんでしょうが、ご主人様が少しでも居ていいと言ってくださる限り、私はきっとここにいる。

 いつか、最期まで。

 廊下の隅に生けられた篝火花は、私の考えとは裏腹に、美しく光を浴びて輝いていた。