その花が咲く頃に

 目が覚めたのは、日が昇るとほぼ同時刻だった。
 目の前に気配を感じ、視線を上げる。
 無表情の幸愛さんが近くに座っていた。

「っ…」

 驚いてべたっと壁に背をつけ、手をついた。
 表情が一切動かない幸愛さんが何を考えているか何もわからない。

「お、おはよう…ございます…」
「おはようございます。なぜこの様なところで?」
「落ちつか、なくて…。その、いつもは外で寝ていたので…」
「は?」

 一瞬空気が固まり、真冬の夜くらいの風が流れた気がする。

「朝食はどうしますか」
「い、いえ。ここにくる前に村でいただいたので、明後日までは必要ございません…」
「…。は?」

 緩んだはずの空気がまた固まり、さらに冷たい風が流れた。

「えぇっと…」
「食べましょうね」
「いいえ! だ、大丈夫です。大事な食料は私の様な者になど…」
「…お前…」

 ふと瞬きの間に、昨日の彼が目の前に現れた。
 気配が一切つかめなかった。
 と言うことは人間ではない。
 昨日から違和感はあったけれど、多分それが確信に変わった。

「食事を抜くのか」
「ぬ、抜くわけでは…。すみません…。でも、三日に一度で事足りるものをいただくわけには…」
「それを抜くと言う」
「申し訳ありません…」
「埒があかん。着替えて玄関前に来い。朝食は本邸で取る」
「かしこまりました。では、坊ちゃん。出て行ってくださいな」
「わかっている」

 現れた時同様、瞬きの間に姿を消した。
 幸愛さんは何事もなかったかの様に、浴衣に似た、着物…と言うものを私に着せた。
 こちらの方が苦しいですね…

「苦しくはないですか」
「い、いえ。平気です」

 何もかもされるがまま、着替えが終わると、彼の場所まで案内してもらった。
 外で彼は待っていた。
 表情の機微が少ない、無愛想な方だ。

「行くぞ」
「一体どこへ向かうのでしょうか…」
「我が主人の屋敷だ」
「は、はあ…」

 絶対に逸れるな。そう忠告され、気を引き締めた。
 彼に着いて歩いていると、しばらくして空気が変わった。
 元々綺麗で澄んだ空気が、静寂を唄い、落ち着いた木々の香りが鼻を掠める。
 空気は青色に見えて、とても冷たい。
 それでも、優しい音が山一帯に響いているような気がした。
 ふと目線を彼に向けると、姿が変わっていた。
 右額の髪の生え際に小さな角が生えていて、ふわりと欠伸をした時に覗いた犬歯が人間より長く鋭かった。

「ん…、なんだ」

 見ていたのに気づかれた。
 申し訳ない。

「い、いえ」
「これのことか?」
「え、ええ…」

 ため息を吐き、忌々しいと吐き捨てた。
 腕を組み、眉間の皺が濃く深くなった。

「この山は鬼の山だ。その鬼は妖の長。聞いたことないのか。悪さをしたものは皆鬼に食い殺されるぞ、と。教わらなかったか」
「そうなのですね」
「知らないのか」
「え、ええ。私は親がいないので」
「そうか。我は鬼の子供。一人前にはまだなれぬ」
「あなたが子どもだったら私は赤ん坊ですね」
 
 嘘でも方便でもなく、ただ思ったことを口にした。
 背丈が小さかろうが、私より長く生きているはずだ。匂いでわかる。
 彼は驚いたような、嬉しいような顔で私を見た。

「私は年上を子供扱いするような人間ではございません。経験の匂いは背丈に似合わずとも、あなたがもう私より大人なことはわかっています」
「なぜそう思う」
「妖…でしたっけ。私たちは異形と呼んでいます。それは人には見えない存在。けれど、私には見えるから。その中でも私の力は強いのですよ」

 これに対して彼は何も言わない。
 それどころか背を向けて進んでしまった。
 つまらない話でごめんなさい。
 またしばらく進み続ける。
 だいぶ山も登ったと思う。足が疲れてきた…。

「着いたぞ」

 顔を上げると、そこには泊めてもらった屋敷よりさらに大きな建物が建っていた。
 とても柔らかい空気を纏っている。

「ここで待っていろ」
「はい…」
 
 彼は建物内に入って行き、少し待つと、とても綺麗な女性が出てきた。
 幸愛さんに似てる。同じ髪型…いや、前髪の分け方が左右で違う…?
 顔立ちはほとんど同じだろう。

「ようこそいらっしゃいました。私は白幸と申します。この屋敷の使用人にございます」
「し、よう、にん…」
「炊事などの家事を一任している者ですよ。着いていらしてください。旦那様のお部屋へご案内します」
「お邪魔します」

 白幸さんに着いて建物内を移動して、ある部屋に通された。
 中に入ってすぐ、当主様に挨拶する時と同じように、正座して、頭を下げる。

「お初にお目にかかります…」
「面を上げよ」

 低く、冷えた声が響く。
 言われた通り体を起こし、目に映ったのは、まるでこの世の者とは思えないほどに美しい男性だった。
 整った目鼻立ちに、凛として切長な目。黒く長い髪は腰まで伸びている。
 美しい。それ以外に似合う言葉がない。
 男性の傍には、先ほどまで一緒にいた彼と、指先から肘くらいまでの大きさの子がいた。

「貴様、村の人間か」
「左様にございます」
「して、何をしにきた」
「村の祭りの贄として参りました」
「ほう。私に貴様のような女子を食えと」
「私は不味いですよ。対して生きる意味もないですし、この場にて私の生殺与奪の権は貴方様にございます。好きに扱ってください」
「…。貴様。名はなんと申す」
「申し訳ありません…。私に名前はございません」
「贄の意味は知っているな」
「…鬼の花嫁、ですよね」

 昔誰かが話しているのを聞いた。
 山には恐ろしい鬼が住み、村に危害を加えている。鬼の機嫌を取ろうと村一番の生娘を花嫁にと贄に出す。それが村の言い伝え。
 今では醜女でも女だと送り出すようだけれど。

「そうかならば話は早い。契約内容について話す」
「はい」
「一度しか言わぬ。覚えろ」
「わかりました」
「窓を開け庭に出るまでは許す。門の外には絶対に出るな。話しかけても良いが仕事中はやめろ」
「かしこまりました」
「そして。私と貴様の間に、一切の愛情はない。いいな」
「もちろんでございます」

 圧倒的、明確な拒絶の匂いが鼻を刺す。
 この屋敷にいること自体は許してくれたようで、少し残念に思ってしまう。
 愛し方もわからない私に、愛情なしの関係は別にいい。
 けれど、だったら殺してくれと思う。

「白幸。部屋を」
「はい。では、ついていらしてくださいな」

 頭を下げてから部屋を出て、白幸さんについていく。
 改めて周りを見ると、綺麗に整えられていて、綺麗なものがたくさんある。
 少し移動し、ある部屋の前で止まる。
 中を見て、申し訳なさでいっぱいになった。

「あの、これは…」
「貴女様のお部屋にございます」
「私、の…。私は雨風が凌げるような座れる隙間があればそれで構わないのですが…」
「そうは言われましても、旦那様の奥様になろうお方にそのような仕打ちはできかねます」
「そう、ですよね…すいません…」
「すぐに慣れましょう」
「…はい」

 落ち着かない。
 膝を抱えて座ってようやく雨風の凌げるような場所に長く住んでいたから、このような手足を伸ばして横になっていい場所は不安が強い。
 こんな所、私の身分には似合わない。

「お食事はどうなさいますか?」
「昨日の朝、村でいただいたので、明後日までは必要ないです…。私に食事は三日に一度で事足ります」
「…失礼。腕を見せてもらっても?」
「え、ええ。大丈夫ですけれど…」

 袖を捲って見せると、信じられないものを見る目で見られた。
 傷だらけで汚い腕。けれど、生口の身分であれば、むしろ綺麗な方かもしれない。人間より細く弱い体が当たり前だ。

「……。旦那様にもお伝えします」
「あ、あの…。何か、仕事はありませんか? 私は何をすれば…」
「ありません。旦那様の奥様になるお方に、仕事などさせるわけがないでしょうに」
「ですが、…私は…」
「それにこの手。皸に乾燥、怪我…。いったいどのような生活を…」
「それは…、些か贅沢すぎるような気がします。私など、食事が無かろうが、水浴びできなかろうが、働いていないと生きている意味も、存在する価値もないかと」
「いけません。この屋敷では貴女に与える仕事は一つもございません。全てこの白幸にお任せください」
「……努力、します…」

 これは骨が折れそうだ。
 要するに、長い間当たり前だと思っていた生活を全て真逆にしなければならないと言うこと。
 時間が必要。

「名がないと仰っていましたが、名が決まるまではお嬢様とお呼びしますね」
「わかりました」
「では、食事の準備がありますので、こちらでお待ちください。食事の後に屋敷内をご案内しますね」
「何から何まですみません…」

 優しい方だな。
 そういえば、先ほどまでの彼は主人などと呼んでいたけれど、彼はあの方のなんなのだろうか。
 気になって考えながら、部屋で待つ。
 静寂に包まれた部屋の中で、ふと、ぽんっと音を立てて、彼の方のそばにいた小さな子が現れた。

「ふふふっ。こんにちは!」
「こんにちは」
「あれれ?きみは驚かないの?」
「よくあることですから」

 本当によくあることだからもう驚かない。他の人には見えない何かが私は見える。
 私が見えていることをわかっているのか、目の前に急に現れて脅かそうとしてくる者もいるから慣れてしまった。

「あなたはどなたでしょうか」
「僕は灯里! きみは? あっ、名前ないんだったね」
「ごめんね」
「ねえねえ! あいつとは話したんだよね?」
「あいつ?」
「ちっちゃい男の子」
「ああ。ええ、話しましたよ」
「つまらないやつでしょ?」
「そんなことはないですよ。無愛想でも優しい方です」

 事実、彼は主人の為とは言えど、私の身なりを整えてくれた。
 人間として扱ってくれた。
 そんな方が優しくないわけがない。

「へえ。僕にも優しくしてくれればいいのになぁ」
「どうして?」
「いつもね、喧嘩しちゃうんだ」
「ちゃんと話せばわかると思いますよ」
「ねえねえ。なんできみは少しも笑わないの?」

 突然の指摘は驚くものだった。
 初めてそんなことを言われた気がする。

「笑わない、ですか」
「うん。ずっと無表情」
「…私は、ごめんね。笑えないんだ。と言うか、笑い方を知らない」
「え? なんで? なんで知らないの? 人間じゃないの?」
「そうね。人間は笑い方を覚えて育つ。親が教えてくれる。私の見た目で親がいないと、笑い方より先に、謝り方を覚えた。それが私の普通」
「そっか。じゃあ僕が教えてあげるね!」
「…なんでそこまでしてくれようとするのですか。私はあなたにとって邪魔な者ではなくて? 突然屋敷に来て花嫁など邪魔でしかないでしょう?」
「そうだね」
「ほら。どうせ長くて数年しか居られない」
「え?」

 私は年を越せば、十と五つになる。
 母が死んだのは、ちょうど十と六を数える前だった。
 同じ血を受け続く私は、母と同じ短命である。目に見えないものまで見えて、不浄を浄化する力がある。見た目も普通の人間とは違う。
 その能力を使ったのは数回ほど。その能力が故に、命は短い。
 十と五つを越えれば明日生きているかなどわかったものではない。
 長くても二十までしか生きられない。私の血筋はそう言うものらしい。

「とにかく、邪魔なのなら関わらない方がいいと思いますよ。私なら、笑い方を知らずとも、知る前には存在しないでしょう」
「悲しいこと言うの。なんで?」
「さて。悲しいと言う言葉その意味がわかりません。私が知る感情というものは、美しい。それだけです」
「なんでそれは知ってるの?」
「この世界は等しく不平等です。けれど、等しく美しい。それは、花も木も、動物もそう。そして、人間も」
「そっか。じゃあ僕と似てるね」

 似ている…?
 どこが。この子は笑えている。この子は、誰かに何かを望める。この子は、名前がある。

「ふふ。また今度教えてあげる!」
「そう」

 誰かに何かを望める生き物は、希望も、期待も、全部知ってる。
 私は誰かに望むことを知らない。希望や期待は、そもそも存在しない。

「灯里ちゃん…。でいいのかな?」
「いいよ! 僕女の子!」
「灯里ちゃんはここに住んでるのですか?」
「うん! さっきの男の人いたじゃん? その人の子みたいなものだよ!」
「じゃああの子は?」
「同じ! でも僕の方が後にここに来たの!」
「そう」

 血の繋がりのない家族の様なものか…。
 灯里ちゃんの話を聞きながら待っていると、しばらくしてから白幸さんが戻ってきた。

「お嬢様、お食事の準備ができました。残していいので少しは口にしてくださいな」
「ありがとうございます…、すいません」
「はぁい!」
「お嬢様もついてきてください」

 部屋を移動して、別の部屋に入る。
 この家には部屋がいくつもある。広すぎではないのか?
 慣れるのが早いのか、少し落ち着いてきた。…気がする。

「食事は大抵全員揃って取ります。ですが、どうしても揃わない場合がございますので、その場合は取れるときに取るという形にしています」
「…ところで、私はなぜ呼ばれたのですか…? 食事はこれからの様に見えますが…」
「お嬢様も一緒に食事をとるのですよ」
「……」
「白幸〜。固まっちゃったよ〜?」
「お前、また抜くのか」
「ああ、さっきの…。抜くわけでは…」

 食事を取らないのは、ただ必要のないものとして育ったからであって、抜いているわけではない。
 そもそも私に一日何食も食べる権利などない。

「全て食べなくていいです。食べるという行為に慣れてください」
「なぜ、でしょうか」
「貴女が旦那様の奥様になる方だからです。旦那様の奥様に、三日に一度など無礼どころか最低の極みです。それ以上に、貴女は不健康すぎる。私が心配なのです」
「しん、ぱい…?」

 しんぱいとは一体どんなものなのでしょうか。

「とにかく少しは口にしましょう」
「…わかりました」

 断りきれず、結局同席することになった。
 全員が揃うと、ご主人様のいただきますの声の後、私以外は箸を取った。
 どうしても食べていい気がしなくて、いつも食べている食事よりはるかに豪華で多い。こんなの、残してよくても残せない。

「……」

 どうしよう…。食べられない。

「貴様、食べぬのか」
「っ申し訳ありません」

 冷たい声が耳を刺す。
 身に染みた当たり前の謝罪が反射的に口に出た。

「…誰が謝れと言ったのだ。私は今食べないのかと聞いた」
「も、申し訳ありません…」
「なぜ謝る」
「もうしわけ、ありません……」
「貴様…」
「旦那様、そんな言い方では萎縮してしまいますよ。これまでここに辿り着いた方もそれが原因で自害したでしょうに」
「はぁ。私にそのつもりはない。そもそも勝手に勘違いして屋敷から出るのが悪い。私は何も悪くないだろう」
「わっ、私はそのっ、ただ、申し訳なくて…」
「何がだ。申してみろ」

 なぜか言葉が出なくなった。
 今まで何を思っても否定され続けた結果か、それともただこの方が恐ろしいのか。
 よくわからない。けれど、少なくとも前者は理由のうちだろう。

「なぜ申さぬ。私が良いと言っているのだ。早う申せ」
「…私に…、この様な食事を与えて、いいのですか…。私に、この様な豪華な食事をいただく権利などございません…」
「…質素ではないか?白幸」
「ええ。そうですね」
「…私が今まで食べてきた食事というのは…、土に落ちたものや、仕えていた家の残飯ですから…、この様な食事は、一生かけても食べられないものです…」
「貴様は一体どの様な暮らしを…。白幸、正せ」
「そのつもりですよ」

 主人様はそれ以上私に問いはしなかった。
 小さな沈黙が流れ、どうしようかと迷う。けれど、すぐに灯里ちゃんが沈黙を破った。

「ねえ主人! これきらい! あげる!」
「灯里、貴女はすぐそうやって好き嫌いするのはやめなさい」
「うるさいよお婆ちゃん!」
「今なんと仰いで?」
「やめろ。騒ぐな。灯里、自分で食え」
「ええ…やだ…」
「半分食え。我がもらおう」
「君ってそんな優しいことする人だっけ? まあいいや! あげる!」

 どうして私に何かを与えようとできるのだろうか…。
 こんな見窄らしい汚れ切った人間以下の私に、なぜ、衣服と屋根のある部屋を与えて、食事までくれるのだろか。
 邪魔だと思っていながら招き入れるその意味がわからない。

「お嬢様。お水だけでも飲みましょうか。少しずつ、口にする行為に慣れましょう。今のままでは早くに命を落としますよ」

 そう言われても…。そもそも長生きなどできない。
 どれだけ健康であろうが、寿命には勝てない。

「…、わかりました」

 今は頷くことしかできない。
 結局、私は食事に一切手をつけず、その場にいるだけとなった。