鈍色の2LDK

 湖白が慌ててスマートフォンを手に取ると、珍しいことに着信だった。

「もしもし。着信なんてどうし……」
『お前、昨日のメッセージ、あれなんだよ!』

 耳をつんざくような声が湖白の体を稲妻のように走り抜けた。今日は休日で、クレームを受けるようなことは何一つしていないというのに、こんな仕打ちを受ける理由はなかったはずだと湖白は小さくため息をついた。

「何って、医者であるあなたにアドバイスがほしいって言っただけじゃないの。専門家がいるのだから、専門家に問い合わせたのよ」
『まず男ってなんだ!何歳の男で、騙されてるとか脅されてるとかじゃないんだよな?』
「私が騙されるような人間に見えるの?失礼ね」
『騙されるとは思ってねえけど、男だろ?保護するなら猫にしておけ!』
「そんなこと言われたって、猫が捨てられていたわけじゃないのだから仕方がないでしょう。それで、アドバイスをくれるから連絡をしてきたんじゃないの?」
『アドバイスよりもお前の危機管理をなあ!』
「大丈夫よ。静かな子で、熱は36度台、喉の痛みや鼻水とかの風邪の症状は特になくて、昨日より顔色は悪くないわ」

 湖白の手元にある情報をかき集めてもこの程度にしかならない。耳元越しに深いため息が聞こえた。

『じゃあ家から出せ。お前が保護する理由はない』
「行く当てがなかった場合は?」
『だとしてもお前がどうこうしなきゃいけないことじゃない』
「私の話を聞いていた?私は、私がどうするかを決めたことへの意見を求めたのではなくて、どこを受診させるべきか、何を検査すべきかって聞いたのだけど。あと、この後彼の事情聴取をする予定だから、求めたことについてのアドバイスをしてくれないのなら切るわよ」

 昨日メモにも書いたが、湖白にはやることがたくさんあるのだ。どこを受診すべきか教えてくれないというのであれば彼と相談の上で決めるしかないし、それ以外にも確認すべきことは山ほどある。いちいち叱られている場合ではないのだ。

『なんで家から出さないんだ?別に身内ってわけじゃないんだろう?』
「そうだけど。でも、一度引き受けたものを途中で投げ出すのは無責任だと思うだけよ」

 湖白の言葉にしばらく黙った後、「ったく、湖白は昔っからそうだよなあ」というぼやきが聞こえた。そして医者としての立場で口を開いた。

『ひとまずうちの病院の泌尿器科に来い。性病関連の検査は1回やっておいた方がいいだろう。一般的な健康診断も実費でなら病院内で行える。一つの場所で済ませられる方がいいんだろう?』
「そうね、その方が助かるわ。じゃあ予約を取ればいいのね」
『お前が連れてくるなら土曜日限定だろうが、土曜日は結構埋まってる。平日にそいつが一人で来れるならもっと早くできると思うが』
「わかったわ。ありがとう、助かった」
『くれぐれも、余計なことまでするなよ』
「私が余計なことをいつしたっていうのよ。必要なことしかしていないわ。今度お礼に差し入れするわ。じゃあ」

 通話を切り、彼の方を向くと彼は話を聞きながら湖白の方を見ていたらしい。ばっちり目が合った。

「事情…ちょうしゅ、だっけ。それって必要?」
「ええ、必要よ」
「どうして?」
「どうしてって、名前がわからないのであれば呼びようがないし、勤め先があるのか、所持品はあるのかもわからない。また路頭に迷って自販機の横で死にかけているのを見たいわけじゃないのよ」
「……でも、お姉さんは」

 変わらぬ、喜びも悲しさも何も読み取れない表情を浮かべたまま、彼は湖白に問いかけた。

「気まぐれに雨宿りさせただけ、でしょ?」

 その声にもっと悲しみや絶望が滲んでいたら良かった、とそんなことを思ってしまった。そこに何の感情もないことが湖白の心拍数を上げた。

「……気まぐれというか、成り行きと言った方が正しいわね。でも、気まぐれに手を差し伸べて、次の日には手折るなんて非道なことをするつもりはないわよ。1晩泊めて、あなたはずっと私に何かを返そうとしたがっていたわね」
「うん」
「情報でいいわ。この時代、個人情報は重要な財産よ。私の質問に嘘偽りなく答えてくれたら、朝食代まで含めて返金不要。どう?」
「……俺の情報を聞いてどうするの?利用価値がないよ。少なくともお姉さんみたいなちゃんとした人が使える情報なんて一つもないと思うけど」

 おそらくこの子は嘘をついているわけではなく、本気でそう思っていて言っているのだろう。湖白は片手をぐっと握った。

「利用価値は私が決めるものよ。まず、所持品が一つもないように見えるのだけど、あなたの名前や住所がわかる公的なものはある?」
「公的って、免許とか?」
「そうそう。マイナンバーでもなんでも顔写真がついていればなおありがたいのだけど」
「……あるよ、多分、バイト先には」
「バイト先があるのね」
「でも、クビになったかもしれない」
「なぜ?」
「バイト先の店長の彼女の家に、いたから」
「……待ってちょうだい。それはどういうこと?」

 湖白は頭を抱えた。これが彼の日常だとすれば、そうではないかとは確かに思っていたけれどそれにしたって自分のものとは違いすぎる。

「昨日の夕方に来ないはずだった店長が来て、鉢合わせた。だから腹殴られて追い出された。荷物はそこにあったから捨てられたかもしれない。カバンの中にスマホも財布もあった」
「……修羅場じゃないの、本当に」
「しゅらば、って言うんだ、そういうの。……捨てられてなかったらあるけど、どうしたらいいのかわからない」
「……わかったわ。じゃあ公的なものは取り戻す手段を考えるとして、名前は教えてくれる?」
「真」
「どういう漢字を書くの?」
「真実の真だよ」
「なるほどね。素敵な名前だわ、わかりやすくて。真くん。おまけに言いやすい」

 まっすぐな目を向けてくるところなんかは名前の通りではないかなどと思って一人でふんふんと納得していた湖白に、真は尋ねた。

「……お姉さんは?」
「え?」
「お姉さんの、名前は?」