鈍色の2LDK

 休日でも金曜が飲み会で帰宅が24時を過ぎるなんてことがなければ、大抵いつも通りの時間に起床する程度には早寝が苦ではない体質の湖白は、しゃきっと6時半には起床した。若干の気だるさが残っているのは昨日発生したイレギュラーのせいで間違いはなかった。
 起き上がって一度リビングに行くと、彼はまだ横にはなっているようだった。顔を覗き込む前にやらなくてはならないことがあるため、すぐさま洗面台まで行き顔を洗う。さすがに赤の他人にすっぴんを晒すのは気が引け、仕事はないというのに薄くメイクをした。洗濯機の中から乾いた衣類を取り出し、自分の服や下着だけは取り出して自室に放り投げる。丁寧に畳んでやるべきなのか、それとも下着などを赤の他人に迂闊に触られるのは嫌なのかと考えたが、どうせこの1着しかないのだからすぐ着るしかないと思い直してソファの近くのローテーブルに置いた。
 彼はどうやら眠る姿勢が良かったらしい。湖白が寝る前にかけた布団はそのまましっかりとかけられていた。なるべく音を立てないようにキッチンに向かい、ケトルのスイッチを押す。水は昨日多めに入れていたらしく、それで充分だった。
 平日も大したものは作らないが、休日の朝は特に気合が入らなかった。昨日買ってきた食パンを2枚トーストし、その間にフライパンを熱した。卵を落として黄身を崩し、両面をしっかり焼く。そういえばベーコンも買ってあった気がすることを思い出すと、冷蔵庫の奥の方からベーコンを入れたプラスチックのケースが出てきた。残りはわずかだったためそのままフライパンに並べて両面にうっすらと焦げ目がつくように焼いた。
 インスタントのキャラメルラテスティックをマグカップに入れて、ケトルからお湯を注ぐと甘い香りが漂った。キッチンの向かいにあるダイニングテーブルに適当に並べ、箸を掴んだ。そして腰を下ろして食べようとしたその時だった。

「ん……」

 声のした方を見ると、ゆっくりと起き上がろうとしている。それはまずい。

「ま、待ちなさい!あなた、何も着ていないのよ。そのテーブルの上に服を置いてあるから、今着るなら私は別室に行くわ」
「……服?」
「起き上がろうとしないで!そのまま起き上がったらタオルケットが剥がれちゃうでしょう!」
「あ、……そっか。何も着てないんだっけ、ああ」

 彼は静かに再び横になった。動きはどうやらスムーズなようで、体調は少しはマシになっているのかもしれない。湖白はトーストを一口かじり、そのまま様子を見るが起き上がる様子はない。

「服、着るなら私は一度出るけれど」
「お姉さん、何か食べてるんじゃないの?」
「食べているけれど、食事を中断して駄々をこねるなんてことはしないわよ」
「食べ終わったらでいい。というか、お姉さんのしたいことを優先して。俺のことは気にしないで」

 と言われても、彼は明らかにこの家にとっての異物なわけで気にしないわけにはいかなかったがひとまず湖白は今度はベーコンを口に入れた。なるべく早めに咀嚼し、彼に着替えてもらわなくてはならない。

「……何の、匂い?」
「香ばしいならトーストかベーコンかしらね」
「違う。ちょっと甘い」
「甘いならキャラメルラテね」
「キャラメル、ラテ」
「もう熱がなくて、体調がマシになっていて服を着替えたら飲んでもらってもいいのだけど。着替えと検温が終わるまでは少し待っていて。朝食は食べれそう?」
「……返せるものが、ない」

 昨日の夜の彼の第一声を改めて思い出す。彼は彼自身を差し出すことで夜を凌いでいた。なるほどと思って湖白は静かに箸を置いた。

「返してほしいものなどないわ。ひとまず私、一旦自室に戻るからその間にあなたは着替えなさい。その後は体温を測ってもらいます。気分は昨日の夜よりマシになった?」

 彼はただ頷いた。それを一瞥し、湖白は食器を持って立ち上がった。マグカップの中にはまだキャラメルラテが残っているため、それだけはテーブルの上に残す。

「急に立ち上がらずに、なるべく座って着替えなさいね」

 それだけ言い残し、湖白はそのままリビングを後にした。

* * *

 10分くらい経ってから、湖白はそっとリビングのドアを開けて隙間から中を盗み見た。どうやら服はちゃんと着ているようだった。ソファに座ってぼうっとしている彼に近付き、体温計を渡す。

「まずは体温を測ってくれるかしら。昨日はよく眠れたの?」

 彼はこくんと頷いた。何となく察していたが、表情が乏しい。見た目は若いし、職場の若い男の子たちはもっと覇気があるというのに。
 湖白から体温計を受け取った彼はそのまま脇にさしてじっとしていた。
 顔色は昨日よりも随分いい。といっても全体的には細いし、着ている服は洗ったとはいえヨレヨレとした印象を受ける。綺麗な顔をしているし、身長もある。それなりのものを着れば見栄えはよくなる容姿だろう。興味がないのか、金がないのか、その両方なのかはまだわからない。

「36.8」
「平熱は?」
「わからない。熱測ったの、10年とかしてないかも」
「……体が丈夫、ということではないわよね?」
「……わからない」

 記憶喪失の人と話したことはないが、もしかしたらこんな感じなのかもしれないと思う。そのくらい、なんというかとにかく手応えがなかった。一般論に照らし合わせると一応は平熱の範囲であるため、一旦は安堵する。

「喉の痛み、鼻の違和感はある?あと頭痛って言ってたわね」
「もうない、と思う」
「起き上がっているのは苦痛ではない?」
「……平気」
「そう。喉が痛くないのであれば固形物でもそのまま食べれるわね。といっても品揃えがいいわけでも、料理が上手いというわけでもないのだけど。すぐ出せるのはトースト。飲み物だけは種類があるわよ。コーヒー系もお茶でも、もちろん水もあるわ」

 しばらくの間があって、彼は小さく口を開いた。

「お姉さんが飲んでいたやつ、飲みたい。あったかい?」

 ゆっくりと顔を上げた彼の目が、まっすぐに湖白を捉えた。どこか吸い込まれるような不思議な目に、湖白は少しだけ微笑んだ。

「あったかくも冷やすこともできるけど、あったかい方がすぐ出せるわ」

 湖白の言葉に彼はまた頷いた。