風呂を終え、髪を乾かした湖白がリビングに戻ってきた。時計を見やると23時を少し過ぎた頃だった。こちら側からは顔が見えない彼はタオルケットにくるまったまま動かない。
ローテーブルに近寄り、マグカップの中身を覗き見ると、中身は空だった。
(足りなかったかしら。飲めるのならもっと飲ませた方が良かったかもしれない)
湖白自身は滅多に風邪をひくこともないため、水分補給に良いとされるものも常備はしていなかった。今日食材を購入していたことと、明日が土曜であることは幸いした。着替えはまだ乾いていないし、洗面台周辺にはスマートフォンも財布も身分の分かるものは何一つなかった。名前も知らなければ年齢だって知らない。今日湖白がしたことは応急処置でしかなかった。冷える外で、より冷える状態のまま放置をして死ぬことがないようにそこから引きはがしただけで、彼の抱えるものはわからず、この先のことも何一つ決まってなどいない。これでよかったのかは、わからなかった。
(……もし彼が死にたかったのだとしたら、それを止めた私は、無責任ね)
彼の未来を永遠に支えてやることなど湖白にはできないし、するつもりもない。それなのに部屋に引き入れた。一人静かな空間が戻ってくると、自分のものではない微かな呼吸の音が聞こえて、その音は確かに今日、この空間が日常とは異なってしまったことを湖白に改めて知らしめた。
マグカップを流しに置き、ケトルに水を足してボタンを押す。ぷすぷすと湯が沸く音がする。ほうじ茶の茶葉を茶こしに入れ、沸いた湯を流し込むと香ばしい香りが広がった。冷ましながらローテーブルに向かい、ソファに背を預けて座る。息を吹きかけて熱が少し落ち着いたのを感じて口元まで運ぶ。夜にはほうじ茶をよく飲む。眠りを妨げないし、この香りも落ち着く。温かさが体の中を走り抜けてようやく、体の芯も冷えていたのだとわかる。はぁと小さく息を零せば、一週間の疲労も一緒に襲ってきた。
(そういえば金曜日。……疲れているわけだわ)
ただでさえ疲れている金曜に、素性の知れない男を拾って、自分は本当にどうかしているのかもしれない。呼吸だけではなくため息も落ちて、また一口、ほうじ茶を飲んだ。
後ろを振り返っても特に動いた様子はなかった。起き上がったり声を掛けてきたりしない様子からおそらくは眠ってしまったのだろう。熱は測りたかったし、頭痛薬ならばあった。インスタントの食品を適当にあさって食べさせ、薬を飲ませてから寝てほしくはあったが、眠れたのであればそれはわざわざ起こしてまでやることではない。
湖白はテーブルの上のブロックメモと無造作にさしたままにしているペン立てから1本、ボールペンを取った。
明日やること
〇体温測定
〇身分証の確認
〇所持金、住所の確認
〇職業調査
〇衣類の調達
〇何か食べさせる
〇医療機関受診
そこまで書いてペンを置き、スマートフォンを濡れた鞄から取り出した。土曜診療もやっている医療機関を探さなくてはならない。車はあるし、彼がこれ以上悪化せずに自力で歩くことができるのであれば多少遠くても連れていくことはできる。
病院と言えばうってつけの人物がいたことを思い出し、とはいえ勤務日がいつなのかまではわからないため、多少のアドバイスを貰えたらと思い画面をタップした。
『忙しいところごめんなさい。
専門家の知識が必要なので連絡しました。
女のところを転々とし生活していたであろう男の子を保護しました。
おそらく風邪はひいている状態。
この場合、どの医療機関を受診させるべきか、助言を貰えると助かる』
用件だけ打ち込み、そのまま送信した。明日の朝8時くらいまでに返事がきたらラッキーだし、そうでなければその時考えればいい。本当は未定なことがあるのは気持ち悪くて好きではないけれど、体調も素性も未確認の人物を横目に仕方がないと諦める。
(私まで風邪をひいたら、送迎できなくなるわね。早く寝る、か)
湖白は使ったマグカップを並べて流しに置いた。洗うのは明日でいい。
一度寝室に戻り、棚から薄手の掛布団を取って眠る彼の上にそっとかける。充分に暖が取れているのかも確認したかったがそれもできなかったため、適当に推し量るしかない。
いつもなら全ての明かりを落としてしまうが、今日は常夜灯だけは消さずに、湖白はリビングを後にした。
* * *
(……声、掛けてくるかと思ったのに)
香ばしい何かが少し香って、近くに座ったと思えばあっという間にいなくなってしまった。薄暗さの中で身を起こすと、テーブルに置いたマグカップはやはり片付けられていたらしい。その代わりに何かメモのようなものが置かれていた。
(座って何かしてたのは、これを書いてたんだ)
暗さに目が慣れてきたのか、はっきりとした綺麗な文字が読めるようになった。
(……俺がこの家のものを盗んで、乾いた服を着ていなくなるってこともあるのに、不用心だね、お姉さん)
ぼんやりする思考でも、そのくらいのことは思いつく。誰かの家で盗みをしたこともなければ、お金をせびったことだってない。それでも、そういう行動が事実としてあることも、悪意があろうがなかろうがそうできてしまう人がいることも知っている。
(俺がたまたま、そこまで悪人じゃなかったって、だけ)
布団が掛けられた分だけ暖かく感じられるようになった。室温が低かったわけではないが、体が冷えていた分、本能的に熱を欲していた。
メモの内容を辿ると、 明日自分を待ち受ける質問たちの予想は大体できた。当たり前の内容だった。まさか、病院まで考えられているとは思わなかったけれど。
(……あったかい)
タオルケットにくるまったまま布団の中で身じろぎすると、知らないのに落ち着く香りが確かにした。
(……変なの。お姉さんが変な人だから、……俺までおかしくなった、かも)
ローテーブルに近寄り、マグカップの中身を覗き見ると、中身は空だった。
(足りなかったかしら。飲めるのならもっと飲ませた方が良かったかもしれない)
湖白自身は滅多に風邪をひくこともないため、水分補給に良いとされるものも常備はしていなかった。今日食材を購入していたことと、明日が土曜であることは幸いした。着替えはまだ乾いていないし、洗面台周辺にはスマートフォンも財布も身分の分かるものは何一つなかった。名前も知らなければ年齢だって知らない。今日湖白がしたことは応急処置でしかなかった。冷える外で、より冷える状態のまま放置をして死ぬことがないようにそこから引きはがしただけで、彼の抱えるものはわからず、この先のことも何一つ決まってなどいない。これでよかったのかは、わからなかった。
(……もし彼が死にたかったのだとしたら、それを止めた私は、無責任ね)
彼の未来を永遠に支えてやることなど湖白にはできないし、するつもりもない。それなのに部屋に引き入れた。一人静かな空間が戻ってくると、自分のものではない微かな呼吸の音が聞こえて、その音は確かに今日、この空間が日常とは異なってしまったことを湖白に改めて知らしめた。
マグカップを流しに置き、ケトルに水を足してボタンを押す。ぷすぷすと湯が沸く音がする。ほうじ茶の茶葉を茶こしに入れ、沸いた湯を流し込むと香ばしい香りが広がった。冷ましながらローテーブルに向かい、ソファに背を預けて座る。息を吹きかけて熱が少し落ち着いたのを感じて口元まで運ぶ。夜にはほうじ茶をよく飲む。眠りを妨げないし、この香りも落ち着く。温かさが体の中を走り抜けてようやく、体の芯も冷えていたのだとわかる。はぁと小さく息を零せば、一週間の疲労も一緒に襲ってきた。
(そういえば金曜日。……疲れているわけだわ)
ただでさえ疲れている金曜に、素性の知れない男を拾って、自分は本当にどうかしているのかもしれない。呼吸だけではなくため息も落ちて、また一口、ほうじ茶を飲んだ。
後ろを振り返っても特に動いた様子はなかった。起き上がったり声を掛けてきたりしない様子からおそらくは眠ってしまったのだろう。熱は測りたかったし、頭痛薬ならばあった。インスタントの食品を適当にあさって食べさせ、薬を飲ませてから寝てほしくはあったが、眠れたのであればそれはわざわざ起こしてまでやることではない。
湖白はテーブルの上のブロックメモと無造作にさしたままにしているペン立てから1本、ボールペンを取った。
明日やること
〇体温測定
〇身分証の確認
〇所持金、住所の確認
〇職業調査
〇衣類の調達
〇何か食べさせる
〇医療機関受診
そこまで書いてペンを置き、スマートフォンを濡れた鞄から取り出した。土曜診療もやっている医療機関を探さなくてはならない。車はあるし、彼がこれ以上悪化せずに自力で歩くことができるのであれば多少遠くても連れていくことはできる。
病院と言えばうってつけの人物がいたことを思い出し、とはいえ勤務日がいつなのかまではわからないため、多少のアドバイスを貰えたらと思い画面をタップした。
『忙しいところごめんなさい。
専門家の知識が必要なので連絡しました。
女のところを転々とし生活していたであろう男の子を保護しました。
おそらく風邪はひいている状態。
この場合、どの医療機関を受診させるべきか、助言を貰えると助かる』
用件だけ打ち込み、そのまま送信した。明日の朝8時くらいまでに返事がきたらラッキーだし、そうでなければその時考えればいい。本当は未定なことがあるのは気持ち悪くて好きではないけれど、体調も素性も未確認の人物を横目に仕方がないと諦める。
(私まで風邪をひいたら、送迎できなくなるわね。早く寝る、か)
湖白は使ったマグカップを並べて流しに置いた。洗うのは明日でいい。
一度寝室に戻り、棚から薄手の掛布団を取って眠る彼の上にそっとかける。充分に暖が取れているのかも確認したかったがそれもできなかったため、適当に推し量るしかない。
いつもなら全ての明かりを落としてしまうが、今日は常夜灯だけは消さずに、湖白はリビングを後にした。
* * *
(……声、掛けてくるかと思ったのに)
香ばしい何かが少し香って、近くに座ったと思えばあっという間にいなくなってしまった。薄暗さの中で身を起こすと、テーブルに置いたマグカップはやはり片付けられていたらしい。その代わりに何かメモのようなものが置かれていた。
(座って何かしてたのは、これを書いてたんだ)
暗さに目が慣れてきたのか、はっきりとした綺麗な文字が読めるようになった。
(……俺がこの家のものを盗んで、乾いた服を着ていなくなるってこともあるのに、不用心だね、お姉さん)
ぼんやりする思考でも、そのくらいのことは思いつく。誰かの家で盗みをしたこともなければ、お金をせびったことだってない。それでも、そういう行動が事実としてあることも、悪意があろうがなかろうがそうできてしまう人がいることも知っている。
(俺がたまたま、そこまで悪人じゃなかったって、だけ)
布団が掛けられた分だけ暖かく感じられるようになった。室温が低かったわけではないが、体が冷えていた分、本能的に熱を欲していた。
メモの内容を辿ると、 明日自分を待ち受ける質問たちの予想は大体できた。当たり前の内容だった。まさか、病院まで考えられているとは思わなかったけれど。
(……あったかい)
タオルケットにくるまったまま布団の中で身じろぎすると、知らないのに落ち着く香りが確かにした。
(……変なの。お姉さんが変な人だから、……俺までおかしくなった、かも)



