10分もせずにがたがたと音がした。湖白がリビングから出ると、言われた通りに焦げ茶色のタオルケットを巻いた彼が、後ろを少し引きずりながら立っていた。
「ここに居ればいい?」
彼が指をさしたのは廊下だった。湖白は何度目か数えるのをやめたため息をついた。次から次へと湖白の理解を超えた発言ばかりするこの男に呆れつつ、思い返すのは最初の言葉だった。言いたいことはたくさんあるが、それは彼が回復してからだ。今はこんなところにいるべきではないことを伝えて、ソファに座らせる他なかった。
「病人疑惑のある人間を廊下に寝かせるわけないでしょう。来なさい」
ひたひた、と裸足が湖白の後ろをついてくる音がした。リビングの戸を開け、ソファまでくると、湖白は背もたれを倒してソファの上をポンポンと叩いた。
「客人用のベッドはないの。ひとまずここに横になって」
「うん。じっとしてるから、お姉さん、早くシャワー浴びて」
「熱を測っていてほしいのだけど。あと、水分補給を……」
ソファにゆっくりと腰掛け、湖白に言われた通りに横になった彼は湖白を見上げた。
「な、何?突然素直に……」
「お姉さんも白くなってる、顔。……それとも、幻覚?目すらちゃんと、見えてない?」
「視界がぼやけているの?頭をぶつけた覚えは?」
湖白がソファに近寄って屈むと不意に、タオルケットを押さえていた右手から彼は力を抜いた。その腕はそのまま湖白の方に伸び、頬に再び触れた。その手はさっきの物とは違って熱が戻っている。
「冷たい。シャワー、浴びて?」
(……艶っぽいって、こういう人に使うのかもしれないわね。綺麗な顔でこの声。……勘違いした女は数知れず、と言われても嘘だとは思わない)
発言に衝撃を受けてきたせいでそこまで頭が回っていなかったが、冷静にまじまじと顔を見れば、どことなく可愛らしさがある。しかし、タオルケットの隙間から見え隠れする何も纏わぬ体は当然男のものであり、少し掠れた声にはうっすらとした色気もある。
「じっとしていなさいね」
「ん」
タオルケットを再びぐるっと巻いて、湖白に背を向けて横になる姿を見てから、湖白は一度キッチンにあるケトルから白湯をマグカップに入れた。そしてソファの前のローテーブルに置くと、静かな部屋にコトンという音が鳴った。
「飲めそうなら飲んで。ただの白湯よ。」
返事はなかった。湖白はリビングを後にし、いつもより温度を上げてシャワーを頭から被った。
* * *
リビングのドアが閉まった。それからしばらく経って、ローテーブルの方に体の向きを変えた。「お姉さん」がいない状態でないと、自由に動くことは許されていない。少しでも動けばタオルケットが緩んで裸になってしまうからだった。
マグカップからは湯気が出ていた。手を伸ばしてマグカップを片手で持つと、もう片方の手がその温さに引き寄せられるように動いた。匂いはない。色は透明で、今までどんな女の人の家でも出されたことのない液体をじっと見つめた。
(……変な、人。男を家にあげるの、危ないよ)
戦えそうなくらいに強いようには見えなかった。やたらにため息が多く、呆れられるようなことばかり言ってしまっているのかもしれない。しかしそれでもどうやら今日、追い出されるようなことはなさそうだ。
マグカップに口をつけると、何も入っていない胃までまっすぐに温さが落ちていった気がした。最後に食べたのはいつだったのか、何を食べたのか思い出せない。そんな体には何の不純物も入らないこのただの水が必要だったのだろう。冷たいままではなく、わざわざ温かくしてくれたことも、先にシャワーを浴びろと命令されたことも、ほんのわずかな時間で起こったこと全てが初めてのことばかりで上手く飲み込めなかった。
ごくりと喉が鳴る。あっという間にマグカップは空になった。ふうと小さく息を吐くと、幾分か呼吸が楽になったような気がする。頭の痛さは変わらないし、節々の痛みから察するにおそらく熱が出ている。そんな中で知らない人に拾われて、素っ裸でタオルケットにくるまっているなんて想像もしていなかった。今日は一日運が悪かったけれど、最後の最後に見捨てられなかった。今日はただ、それだけの話だ。退屈で、ただただ日々を食い潰すだけの自分に、たまたま違うことが起きただけ。
(……だからって、何かが変わるわけじゃない)
空になったマグカップをテーブルに置き、「お姉さん」が戻ってくる前に体を隠すようにタオルケットをぐるりと巻き付け、テーブルに背を向けて横になる。頭が痛い。体も痛い。熱いのに寒い。だが、眠れない。
(……ぼんやりすんのに、むずむずする)
目を閉じても全身が、「お姉さん」の帰ってくる音を拾おうとしていた。
「ここに居ればいい?」
彼が指をさしたのは廊下だった。湖白は何度目か数えるのをやめたため息をついた。次から次へと湖白の理解を超えた発言ばかりするこの男に呆れつつ、思い返すのは最初の言葉だった。言いたいことはたくさんあるが、それは彼が回復してからだ。今はこんなところにいるべきではないことを伝えて、ソファに座らせる他なかった。
「病人疑惑のある人間を廊下に寝かせるわけないでしょう。来なさい」
ひたひた、と裸足が湖白の後ろをついてくる音がした。リビングの戸を開け、ソファまでくると、湖白は背もたれを倒してソファの上をポンポンと叩いた。
「客人用のベッドはないの。ひとまずここに横になって」
「うん。じっとしてるから、お姉さん、早くシャワー浴びて」
「熱を測っていてほしいのだけど。あと、水分補給を……」
ソファにゆっくりと腰掛け、湖白に言われた通りに横になった彼は湖白を見上げた。
「な、何?突然素直に……」
「お姉さんも白くなってる、顔。……それとも、幻覚?目すらちゃんと、見えてない?」
「視界がぼやけているの?頭をぶつけた覚えは?」
湖白がソファに近寄って屈むと不意に、タオルケットを押さえていた右手から彼は力を抜いた。その腕はそのまま湖白の方に伸び、頬に再び触れた。その手はさっきの物とは違って熱が戻っている。
「冷たい。シャワー、浴びて?」
(……艶っぽいって、こういう人に使うのかもしれないわね。綺麗な顔でこの声。……勘違いした女は数知れず、と言われても嘘だとは思わない)
発言に衝撃を受けてきたせいでそこまで頭が回っていなかったが、冷静にまじまじと顔を見れば、どことなく可愛らしさがある。しかし、タオルケットの隙間から見え隠れする何も纏わぬ体は当然男のものであり、少し掠れた声にはうっすらとした色気もある。
「じっとしていなさいね」
「ん」
タオルケットを再びぐるっと巻いて、湖白に背を向けて横になる姿を見てから、湖白は一度キッチンにあるケトルから白湯をマグカップに入れた。そしてソファの前のローテーブルに置くと、静かな部屋にコトンという音が鳴った。
「飲めそうなら飲んで。ただの白湯よ。」
返事はなかった。湖白はリビングを後にし、いつもより温度を上げてシャワーを頭から被った。
* * *
リビングのドアが閉まった。それからしばらく経って、ローテーブルの方に体の向きを変えた。「お姉さん」がいない状態でないと、自由に動くことは許されていない。少しでも動けばタオルケットが緩んで裸になってしまうからだった。
マグカップからは湯気が出ていた。手を伸ばしてマグカップを片手で持つと、もう片方の手がその温さに引き寄せられるように動いた。匂いはない。色は透明で、今までどんな女の人の家でも出されたことのない液体をじっと見つめた。
(……変な、人。男を家にあげるの、危ないよ)
戦えそうなくらいに強いようには見えなかった。やたらにため息が多く、呆れられるようなことばかり言ってしまっているのかもしれない。しかしそれでもどうやら今日、追い出されるようなことはなさそうだ。
マグカップに口をつけると、何も入っていない胃までまっすぐに温さが落ちていった気がした。最後に食べたのはいつだったのか、何を食べたのか思い出せない。そんな体には何の不純物も入らないこのただの水が必要だったのだろう。冷たいままではなく、わざわざ温かくしてくれたことも、先にシャワーを浴びろと命令されたことも、ほんのわずかな時間で起こったこと全てが初めてのことばかりで上手く飲み込めなかった。
ごくりと喉が鳴る。あっという間にマグカップは空になった。ふうと小さく息を吐くと、幾分か呼吸が楽になったような気がする。頭の痛さは変わらないし、節々の痛みから察するにおそらく熱が出ている。そんな中で知らない人に拾われて、素っ裸でタオルケットにくるまっているなんて想像もしていなかった。今日は一日運が悪かったけれど、最後の最後に見捨てられなかった。今日はただ、それだけの話だ。退屈で、ただただ日々を食い潰すだけの自分に、たまたま違うことが起きただけ。
(……だからって、何かが変わるわけじゃない)
空になったマグカップをテーブルに置き、「お姉さん」が戻ってくる前に体を隠すようにタオルケットをぐるりと巻き付け、テーブルに背を向けて横になる。頭が痛い。体も痛い。熱いのに寒い。だが、眠れない。
(……ぼんやりすんのに、むずむずする)
目を閉じても全身が、「お姉さん」の帰ってくる音を拾おうとしていた。



