鈍色の2LDK

 カードキーをかざして、湖白は玄関に入った。手をパッと離し、パンプスを無造作に脱ぎ捨てて洗面所に向かった。

「まだ入らないで。辛いなら座っていなさい」
「濡れるよ、床」
「もう濡れてるのよ。私が歩いたんだから。いいから座りなさい。倒れられても困るわ」

 返事はなかった。湖白はブラウスを脱いで軽く上半身を拭き、スウェットを頭から被った。下着までは濡れていなかったため、下も脱いで大雑把に拭き、スウェットの下も履く。本来他人に見せられる姿ではないが、今はなりふり構ってなどいられなかった。肩にタオルを乗せてバスタオルを2枚持って玄関に向かう。向かう途中で廊下にばっと1枚、バスタオルを広げた。あとで拭くために投げ、もう1枚は広げてそっと丸まった背中にかけた。

「自分で拭ける?」
「ん」

 弱弱しく、それでいてぎこちない動きでゆっくりと腕を動かす彼を見つめていると、もはや多少強引でも自分がやった方が明らかに早いと判断し、湖白は念のため断りを入れることにした。

「多少乱暴にされても平気?」
「平気だよ」
「じっとしていなさい」
「え……?」

 やはり手にほとんど力は入っていなかったのだろう。その手からバスタオルを抜き取ると、無造作に一番濡れている頭に被せる。そしてそのままごしごしと思い切り拭く。本当はもう少し優しくやってあげた方がいいのだろうが、とにかく早くある程度拭いて、温めてやらなくてはいけない気がした。まだ、彼がどれだけの時間外にいたのかも、いつからいたのかも何もかもがわからないのだ。触れた部分によっては酷く冷たく、熱い。そんなアンバランスな状態であるということ以外は何も。

「……これが、乱暴?」
「痛かった?」
「乱暴じゃない、全然」

 ぽつりと落ちた言葉に、また認識のずれを感じる。彼との会話はおそらくずっと噛み合っていないのだろう。先ほどの買う、買わない論争だってきっと、湖白の言葉は本当の意味で彼には届いていない。確認したわけではなくとも、それは何となくわかる。湖白の中では丁寧さは今の必須項目ではないと判断し、充分雑に拭いているつもりだが、これは彼の中では乱暴なものではどうやらないらしい。

(乱暴、は暴力を想定していた……なんてことではないといいのだけど)

 自分が生きてきた道とは少しも交わらないところを生きている子なのだろうということは察している。だからこそ、放置はできなかった。たとえ誰だろうがこの雨の中ただ打たれるだけの人がいたら声を掛けたとは思うが、冷静になって考えると男を家に招いたのは迂闊だった部分も少なからずある。それでも今更追い返せなかった。身長は湖白よりも高いし、女という性別上、物理的には男に敵わない。しかし、少なくとも今の彼は男だとかそういうものの前に、ただの迷子にしか見えなかった。気だるげな声も、覇気のない瞳も、湖白に問うたことも全てが、彼をとても独りに見せていた。

「男物の着替えがないから、あなたは服を全て脱いだら洗濯機に放り込んで。本当は湯船に浸からせたいところだけど、それで倒れられても私はあなたを運べないので、シャワーで汚れを落として体を温めなさい。タオルケットを用意しておくから、それを全身に巻き付けて出てくること」
「裸じゃなくていいってこと?」
「裸でうろうろされるのは迷惑行為よ。禁止事項だから絶対にタオルケットを巻いて出てきなさい。引きずるのは構わないから」
「……お姉さん、先に入ってよ」

 彼の手がそっと、湖白の頬に触れた。冷え切った親指が湖白の頬を上からすっと撫でた。

「お姉さんが風邪ひくよ」
「現在進行形で風邪をひいている人に言われたくないわ。家主は私よ。あなたはいいから黙って指示に従いなさい」

 湖白の言葉に、彼はゆっくりと体を起こした。そしてよろよろと動き出す。湖白はそのすぐ後ろをついて歩く。彼を洗面所に押し込めるとドアを閉める。

「すぐ入りなさい。シャンプーとかは女物しかないけれど、そこは我慢して」
「……そんなの、我慢って言わなくない?」
「ん?何か言った?」
「言ってない。じゃあ、入ります」
「入りなさい」

 水で重くなった衣服が洗濯機の中に落ちる音がした。シャワーの音がするのを確認してから、湖白はドアを開け洗濯機を回した。乾燥まで一括でやってもらうことにする。そしてすぐに出て、タオルケットを取りに向かった。