鈍色の2LDK

 フロントガラスを打ち付ける雨が強まっている。ワイパーはそれなりのスピードで動かしているけれど、暗いことも相まって視界が悪かった。残業をしたついでに買い出しもしようと車を少し遠くのスーパーまで走らせたのが良くなかったのかもしれない。湖白ははぁとため息をつきながらハンドルを握っていた。叩きつけられるような雨が降ったことだけは誤算だったが、それ以外は何の変哲もない、凡庸な一日だった。変わらない毎日をただ繰り返すだけの生活をこの先どれだけ続けるのかわからないまま、今日も一日が終わっていく。このうっすらとした、生きることへの意味のなさを感じるのは常であるため、これといって気分が落ちているとかそういうことではないけれど、考えることにも飽きてはいた。考えること以前に、そう考えてしまう思考回路に。
 見慣れた車通りの少ない道を走り抜け、自宅マンションの駐車場に車を停めた。エコバックを片手に持ち、もう片方の手でロックをかけてくるりとエントランスの方に体を向けた。30歩ほどのほんの短い距離だ。傘をさすのが億劫で、湖白はそのまま軽く駆けようとした、その時だった。

「え……?」

 雨足は少しも弱まることはなく、かれこれ30分はこの強さで降っている。こんな雨の中、傘もささずに外にいる人間なんているはずがない。それなのに、湖白の目の前には自販機の横に体を預けて目を閉じる青年が座っていた。

(し、死んでる!?)

「ちょっと!生きてるの?」

 湖白は駆け寄ると、屈んで青年の肩を揺さぶった。体温を確かめたくて青年の首に手をあてると冷えを強く感じた。それもそのはずだ。かれこれ40分はこの強さで雨が降り続けている。もし仮にずっと外にいたのだとすれば当然だ。10月の夜は冷える。

「ねぇ、息は……。」

 口元に手をかざすと微かに呼吸の空気の動きを感じた。たったそれだけのことで、湖白はひどく安堵してしまっていた。死んでいたら第一発見者になってしまう。遺体なんてものは人生でそう何度も見るものではないし、一度見てしまったらしばらく忘れられないということはもう充分に知っていた。
 揺さぶられたからなのか、とてもゆっくりと青年の目が開かれる。澄んだ黒目の大きな瞳がぼんやりと湖白を見つめていた。なかなか焦点が合わないらしい。

「大丈夫……ではない、とは思うんだけど、立てる?」
「……あぁ、今日はお姉さんが、俺を買う?」

 気だるげに呟かれた言葉に湖白はどこか、言い慣れた雰囲気を感じ取った。雨の中外で眠っていて、思考も視界もぼんやりとした状態で吐かれた最初の言葉がそれなのだ。
 湖白は盛大にため息をついた。どう考えても湖白よりもはるかに若い青年が、自分をこんなにも簡単に差し出してしまうことが虚しくて。

「馬鹿にしないで。人間を買う趣味はないわ。行く当てがあったらこんなところで眠らないと思うのだけど、当たっている?」
「当たってるよ。だからお姉さんが俺を買ってくれないと、俺は行く場所がない」
「……最初の質問に戻るわね。立てるの?」
「ん」

 自販機に手をつきながらよろよろと青年が立ち上がる。焦げ茶色の髪からはぽたぽたと雫が落ちる。立ち上がった彼と目が合うやいなや、彼の体はわずかに傾いだ。慌てて前に進み出て、湖白は肩で彼の頭を受け止めた。受け止められた彼はゆっくりと体を起こした。再び自販機に手をつきながら、右肩をもたれさせている。

「立ち眩み?」
「……多分」
「じゃあひとまず、家に来なさい。歩けないなら一度荷物を置いてから来るけど、歩ける?」
「歩ける、けど。俺、今日お姉さんのこと、気持ちよくしてあげられないよ?……頭痛いし、なんかグラグラするし」

 湖白の口からはため息が止まらなかった。この数回のやり取りで彼の夜の過ごし方のあらかたを理解してしまったような気がする。

「私は人間を買いません。あなたが今までどんな生活をしていたかは知らないし、言わなくていいわ。ただ、こんな雨の中見つけてしまった人をそのまま放り出しておくほど非道ではないの。雨を凌ぎたいなら来なさい」
「……俺は何をしたらいいの?」

 まるで小さな子が問いかけているのかと錯覚するほどに弱弱しい声が俯いたまま発せられた。湖白は空いている方の手で、彼の手を取った。

「まずは回復しなさい。首は冷たかったけど、手は熱いわね。顔色は悪い。熱がある可能性があるし、人間は風邪一つでも死ぬことがあるのよ。だから、あなたはただ体を拭いて乾かして、食べれるなら何か食べて眠りなさい」

 返事はなかった。しかし、このまま外にいても湖白だってずぶ濡れになるだけだ。完全に同意が取れたわけではないが、湖白が引いた手を振り払う様子はなかった。それを仮の同意ととって、湖白はそのまま彼の手を引き、エレベーターに乗り込んだ。