心地よい風が吹いていた。
直(なお)は、家から山に向かって半時間ほど上った所にあるこの小さな丘が好きだった。
頂上に続く道から細い脇道に入って見つけた自分だけの秘密の場所。
広くはないが直一人には十分過ぎる。草原を揺らしながら吹き上がって来る風を受けるのが、直は好きだった。
直はそこでよく絵を描いた。遠くの山々や下に見える町の景色は、季節ごとに色合いが変わって少しも飽きない。
今日もいつもの場所にイーゼルを立て、いつもの岩に腰を下ろすと、直は山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。冬を越してぐんぐん伸び始めた草の匂いを風が運んでくる。大好きな春の匂いだ。
一心に絵筆を動かしていたが、ふと風が止んだ気がした。
「あれ?」
顔を上げたとき、何かいるような気配がした。
振り向くと、いつの間にか後ろに女の子が立っていてギョッとした。
また吹き始めた風で白いワンピースがふわふわ揺れた。裾が長くてやわらかそうで、どう見ても山には不釣り合いな衣装だった。
「だれなんだ、この子。どこから来た? ここはぼくしか知らないはずなのに。しかも……、なんでにこにこしてるんだ?」
分からない――。
黙っていると、少女が近づいてきた。足が固まって、後ずさりもできなかった。
「上手だね」
いきなりほめられた。
「……」
少女はゆっくり覗き込んで、また言った。
「ほんと上手」
「え、ありがと……」
裏返りそうな声でやっとこたえた。
すると、思い詰めたような真剣な顔になって少女が言った。
「あの、……わたしを描いてもらえないかな……」
「え?」
「ごめんね。あんまり上手だから、人の顔もサササッて描けるんだろうなって思って……」
三回も上手と言われて直は戸惑った。胸に苦い気持ちがよみがえってきた。
中学では美術部に入っているが、周りは自分より上手い子ばかりだ。去年みんなで出品したコンクールでも、直だけが落選だった。それなのに……。
「上手じゃないよ。こんな絵」
「そんなことない。わたしは好き。この山、なんか喜んでるみたい」
「……」
あきれたように自分を見て黙っている直を見て、ちょっと寂しげに視線を落として少女が言った。
「ごめんなさい。急に言ってもだめですよね」
なぜかていねいな口調になっていた。
「あ、いや、……いいけど、……そんなすぐには仕上がらないから」
「じゃあ、明日も来ます。あさっても。二日あればできますか?」
「あ? うん、それなら、多分……」
「よかった」
本当にほっとして、うれしそうに笑う少女と目が合った。
直は胸がドキンとして、あわてて横を向いた。
「明日はちゃんとした服で来ないと……」
服をつまんで恥ずかしそうにつぶやくと、少女が直に向き直って言った。
「じゃあ、今日はこれで」
「あ、うん……」
言葉が続かずに下を向いた。
そのとき、風が止んだ。
顔を上げると、少女はもう歩き出していた。その道は細くて、直もまだ行ったことがなかったが――。
ずっと見ていると少女が振り向いて手を振った。
つられて直も手を振った。
「だれだったんだ? でも、上手って言ってくれた。本気みたいに。……あしたまた来るって言った」
帰り支度をしながら、なぜだか心が弾んでいた。
変な出来事に違いなかったが、こんなこともあるんだなと思った。
何か温かいものが胸に湧き上がってくるのを感じた。
直(なお)は、家から山に向かって半時間ほど上った所にあるこの小さな丘が好きだった。
頂上に続く道から細い脇道に入って見つけた自分だけの秘密の場所。
広くはないが直一人には十分過ぎる。草原を揺らしながら吹き上がって来る風を受けるのが、直は好きだった。
直はそこでよく絵を描いた。遠くの山々や下に見える町の景色は、季節ごとに色合いが変わって少しも飽きない。
今日もいつもの場所にイーゼルを立て、いつもの岩に腰を下ろすと、直は山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。冬を越してぐんぐん伸び始めた草の匂いを風が運んでくる。大好きな春の匂いだ。
一心に絵筆を動かしていたが、ふと風が止んだ気がした。
「あれ?」
顔を上げたとき、何かいるような気配がした。
振り向くと、いつの間にか後ろに女の子が立っていてギョッとした。
また吹き始めた風で白いワンピースがふわふわ揺れた。裾が長くてやわらかそうで、どう見ても山には不釣り合いな衣装だった。
「だれなんだ、この子。どこから来た? ここはぼくしか知らないはずなのに。しかも……、なんでにこにこしてるんだ?」
分からない――。
黙っていると、少女が近づいてきた。足が固まって、後ずさりもできなかった。
「上手だね」
いきなりほめられた。
「……」
少女はゆっくり覗き込んで、また言った。
「ほんと上手」
「え、ありがと……」
裏返りそうな声でやっとこたえた。
すると、思い詰めたような真剣な顔になって少女が言った。
「あの、……わたしを描いてもらえないかな……」
「え?」
「ごめんね。あんまり上手だから、人の顔もサササッて描けるんだろうなって思って……」
三回も上手と言われて直は戸惑った。胸に苦い気持ちがよみがえってきた。
中学では美術部に入っているが、周りは自分より上手い子ばかりだ。去年みんなで出品したコンクールでも、直だけが落選だった。それなのに……。
「上手じゃないよ。こんな絵」
「そんなことない。わたしは好き。この山、なんか喜んでるみたい」
「……」
あきれたように自分を見て黙っている直を見て、ちょっと寂しげに視線を落として少女が言った。
「ごめんなさい。急に言ってもだめですよね」
なぜかていねいな口調になっていた。
「あ、いや、……いいけど、……そんなすぐには仕上がらないから」
「じゃあ、明日も来ます。あさっても。二日あればできますか?」
「あ? うん、それなら、多分……」
「よかった」
本当にほっとして、うれしそうに笑う少女と目が合った。
直は胸がドキンとして、あわてて横を向いた。
「明日はちゃんとした服で来ないと……」
服をつまんで恥ずかしそうにつぶやくと、少女が直に向き直って言った。
「じゃあ、今日はこれで」
「あ、うん……」
言葉が続かずに下を向いた。
そのとき、風が止んだ。
顔を上げると、少女はもう歩き出していた。その道は細くて、直もまだ行ったことがなかったが――。
ずっと見ていると少女が振り向いて手を振った。
つられて直も手を振った。
「だれだったんだ? でも、上手って言ってくれた。本気みたいに。……あしたまた来るって言った」
帰り支度をしながら、なぜだか心が弾んでいた。
変な出来事に違いなかったが、こんなこともあるんだなと思った。
何か温かいものが胸に湧き上がってくるのを感じた。

