#そこにあったはずの愛× 七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
第1話(玲依側)「予行演習」
凛と会わない夜は、部屋が広すぎた。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、それでもまだ十時にもならない。
ソファに座ると、テーブルの上のスマホばかり見てしまう。
次はいつ、と送れたら楽なのだろう。
けれど、それを先に送るのは、条件を出した側のすることではなかった。
対等な関係。そういうことになっている。
だから、待つしかない。
その夜は、仕事が長引いた。
会社を出たのは九時半を過ぎていて、駅に着いても、まっすぐ帰る気にはなれなかった。
駅の裏手に、控えめな灯りの看板を出した、小さなバーがあった。
何も訊かれずに、一杯だけ飲める場所。それだけで十分だった。
扉を押すと、ベルが鳴った。
入口から一番遠い席に座った。
「ギムレットを」
カウンターの中の若いバーテンダーは、顔を上げずにシェイカーを取った。
ギムレットには、別れの話がついて回る。
古い小説の中で、別れ際に飲まれる酒。知っていて頼むのは、たぶん自分くらいのものだろう。
いつか、あの子に別れを告げられる日が来る。
その日に取り乱さないための、予行演習のようなものだった。
淡い緑が白く曇ったグラスが、目の前に置かれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ジンとライムだけの、甘さのない味。
喉を落ちていく冷たさが、ちょうどよかった。
スマホを伏せて、カウンターに置いた。
少しして、表に返した。
通知はなかった。
また、伏せた。
自分でも呆れるくらい、同じことを繰り返していた。
カウンターの真ん中に、若い女の子が二人座っていた。
「ねえ、最近どうしたの。全然連絡つかないんだけど」
「ご注文は」
バーテンダーは、二人のほうを一度も見なかった。
グラスを拭く手元だけを見ていた。
「今日このあと、空いてる?」
「もう、行かないんで」
もう、と彼は言った。
前は、行っていたということだ。
女の子たちは不満そうに声を上げて、それでも彼は顔を上げなかった。すみません、とだけ言って、背中を向けた。
目を合わせない。
合わせれば、何かが始まってしまうから。
知っているやり方だった。
今の自分が、毎晩のようにしていることだった。
十一時の少し前。
隣の席に、誰かが座った。
ほかに、席はいくらでも空いていた。
「一人?」
「ええ」
「待ち合わせ?」
「いいえ」
グラスだけを見ていた。
男の顔は見なかった。見る必要がなかった。
「じゃあ、一杯奢らせてよ」
「結構です」
「冷たいなあ。いいじゃん、一杯くらい」
前の自分なら、ここで頷いていたのだろう。
誘われれば、断る理由もなかった。誰でもよかった。誰でもいいことが、楽だった。
今は違う。
あの子と始めたあの夜から、ほかの誰にも触れさせていない。言葉にしたことはない。それでも、それが自分と凛のあいだの決まりごとだった。
男の手が、カウンターの上を滑ってきた。
手首を引こうとした、そのとき。
「お客様」
低い声がした。
「そちら、お連れ様じゃないですよね」
「は? 今、話してんだけど」
「お会計、こちらで伺います」
男はしばらく黙っていた。
舌打ちが一つ聞こえて、扉のベルが乱暴に鳴った。
バーテンダーは、男の顔も見ていなかった。
「……助かったわ」
「仕事なんで」
彼は、グラスを下げて洗い場に置いた。
水の音がした。
そのまま、何も言わずに帰ればよかった。
自分から誰かに話しかけることなど、ずっとしてこなかったのに。
「さっきから」
口が、先に動いていた。
「私と、同じことしてるわね」
水の音の向こうで、彼の手が止まった。
「目、合わせないの。あの子たちにも」
蛇口が閉まった。
「……目、合わせなきゃいいんで」
思わず、息が漏れた。
笑ったのは、いつ以来だろう。
「そうね」
グラスの縁を、指でなぞった。
目を合わせなければ、何も始まらない。
それでも、一度だけ合わせてしまった目があった。
三年前の、あの子の目。
あの目に合わせてしまったから、今、こんなふうに待っている。
それきり、彼は何も訊かなかった。
自分も、何も訊かなかった。
カウンター越しに、ようやく彼の姿をちゃんと見た。
あの子と同じくらいの、若い男の子だった。整った顔立ちを、伏せた睫毛が隠していた。髪が、一本だけ跳ねていた。
手際はいいのに、どこか眠たそうで、疲れて見えた。
誘われても行かなくなった男の子。
なぜ行かなくなったのかは、わからない。
けれど、行かなくなった人間がどんな夜を過ごすのかは、知っている気がした。
この子も、誰かを待っているのかもしれない。
言えないことを、一つ抱えたまま。
「もう一杯、同じものを」
二杯目のギムレットも、淡い緑のまま白く曇った。
半分ほど飲んだところで、時計を見た。零時が近かった。
席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
彼は、最後まで顔を上げなかった。
扉に手をかけたところで、言葉がこぼれた。
「……おやすみなさい」
どうしてそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。
ベルが鳴って、九月の夜の空気が肌に触れた。
*
駅までの道で、スマホが震えた。
鞄から出すまでの短い時間が、ひどく長く感じた。
『玲依さん、金曜あいてる?』
凛だった。
いつもの軽い文面。
会いたいのか、ただ予定を訊いているだけなのか。読み取れない。
読み取れないまま、指が勝手に動いた。
『会いたい』
打って、消した。
『空いてる』
それだけ送った。
すぐに、了解、と短い返事が来た。
画面を胸に押し当てて、少しだけ立ち止まった。
まだ、終わっていない。
今夜もまだ、あの子は降りていない。
ふと、あのバーテンダーのことを思った。
伏せたスマホを、彼も見ていたのだろうか。
彼の待っている連絡は、今夜、届いたのだろうか。
顔を上げると、駅の灯りが滲んで見えた。
ギムレットの冷たさが、まだ喉の奥に残っていた。
第1話(玲依側)「予行演習」
凛と会わない夜は、部屋が広すぎた。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、それでもまだ十時にもならない。
ソファに座ると、テーブルの上のスマホばかり見てしまう。
次はいつ、と送れたら楽なのだろう。
けれど、それを先に送るのは、条件を出した側のすることではなかった。
対等な関係。そういうことになっている。
だから、待つしかない。
その夜は、仕事が長引いた。
会社を出たのは九時半を過ぎていて、駅に着いても、まっすぐ帰る気にはなれなかった。
駅の裏手に、控えめな灯りの看板を出した、小さなバーがあった。
何も訊かれずに、一杯だけ飲める場所。それだけで十分だった。
扉を押すと、ベルが鳴った。
入口から一番遠い席に座った。
「ギムレットを」
カウンターの中の若いバーテンダーは、顔を上げずにシェイカーを取った。
ギムレットには、別れの話がついて回る。
古い小説の中で、別れ際に飲まれる酒。知っていて頼むのは、たぶん自分くらいのものだろう。
いつか、あの子に別れを告げられる日が来る。
その日に取り乱さないための、予行演習のようなものだった。
淡い緑が白く曇ったグラスが、目の前に置かれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ジンとライムだけの、甘さのない味。
喉を落ちていく冷たさが、ちょうどよかった。
スマホを伏せて、カウンターに置いた。
少しして、表に返した。
通知はなかった。
また、伏せた。
自分でも呆れるくらい、同じことを繰り返していた。
カウンターの真ん中に、若い女の子が二人座っていた。
「ねえ、最近どうしたの。全然連絡つかないんだけど」
「ご注文は」
バーテンダーは、二人のほうを一度も見なかった。
グラスを拭く手元だけを見ていた。
「今日このあと、空いてる?」
「もう、行かないんで」
もう、と彼は言った。
前は、行っていたということだ。
女の子たちは不満そうに声を上げて、それでも彼は顔を上げなかった。すみません、とだけ言って、背中を向けた。
目を合わせない。
合わせれば、何かが始まってしまうから。
知っているやり方だった。
今の自分が、毎晩のようにしていることだった。
十一時の少し前。
隣の席に、誰かが座った。
ほかに、席はいくらでも空いていた。
「一人?」
「ええ」
「待ち合わせ?」
「いいえ」
グラスだけを見ていた。
男の顔は見なかった。見る必要がなかった。
「じゃあ、一杯奢らせてよ」
「結構です」
「冷たいなあ。いいじゃん、一杯くらい」
前の自分なら、ここで頷いていたのだろう。
誘われれば、断る理由もなかった。誰でもよかった。誰でもいいことが、楽だった。
今は違う。
あの子と始めたあの夜から、ほかの誰にも触れさせていない。言葉にしたことはない。それでも、それが自分と凛のあいだの決まりごとだった。
男の手が、カウンターの上を滑ってきた。
手首を引こうとした、そのとき。
「お客様」
低い声がした。
「そちら、お連れ様じゃないですよね」
「は? 今、話してんだけど」
「お会計、こちらで伺います」
男はしばらく黙っていた。
舌打ちが一つ聞こえて、扉のベルが乱暴に鳴った。
バーテンダーは、男の顔も見ていなかった。
「……助かったわ」
「仕事なんで」
彼は、グラスを下げて洗い場に置いた。
水の音がした。
そのまま、何も言わずに帰ればよかった。
自分から誰かに話しかけることなど、ずっとしてこなかったのに。
「さっきから」
口が、先に動いていた。
「私と、同じことしてるわね」
水の音の向こうで、彼の手が止まった。
「目、合わせないの。あの子たちにも」
蛇口が閉まった。
「……目、合わせなきゃいいんで」
思わず、息が漏れた。
笑ったのは、いつ以来だろう。
「そうね」
グラスの縁を、指でなぞった。
目を合わせなければ、何も始まらない。
それでも、一度だけ合わせてしまった目があった。
三年前の、あの子の目。
あの目に合わせてしまったから、今、こんなふうに待っている。
それきり、彼は何も訊かなかった。
自分も、何も訊かなかった。
カウンター越しに、ようやく彼の姿をちゃんと見た。
あの子と同じくらいの、若い男の子だった。整った顔立ちを、伏せた睫毛が隠していた。髪が、一本だけ跳ねていた。
手際はいいのに、どこか眠たそうで、疲れて見えた。
誘われても行かなくなった男の子。
なぜ行かなくなったのかは、わからない。
けれど、行かなくなった人間がどんな夜を過ごすのかは、知っている気がした。
この子も、誰かを待っているのかもしれない。
言えないことを、一つ抱えたまま。
「もう一杯、同じものを」
二杯目のギムレットも、淡い緑のまま白く曇った。
半分ほど飲んだところで、時計を見た。零時が近かった。
席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
彼は、最後まで顔を上げなかった。
扉に手をかけたところで、言葉がこぼれた。
「……おやすみなさい」
どうしてそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。
ベルが鳴って、九月の夜の空気が肌に触れた。
*
駅までの道で、スマホが震えた。
鞄から出すまでの短い時間が、ひどく長く感じた。
『玲依さん、金曜あいてる?』
凛だった。
いつもの軽い文面。
会いたいのか、ただ予定を訊いているだけなのか。読み取れない。
読み取れないまま、指が勝手に動いた。
『会いたい』
打って、消した。
『空いてる』
それだけ送った。
すぐに、了解、と短い返事が来た。
画面を胸に押し当てて、少しだけ立ち止まった。
まだ、終わっていない。
今夜もまだ、あの子は降りていない。
ふと、あのバーテンダーのことを思った。
伏せたスマホを、彼も見ていたのだろうか。
彼の待っている連絡は、今夜、届いたのだろうか。
顔を上げると、駅の灯りが滲んで見えた。
ギムレットの冷たさが、まだ喉の奥に残っていた。



