ギムレットのあとで

# 七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない×そこにあったはずの愛

第1話(海音側)「ギムレット」



 寝室の扉は、今朝も閉まっていた。

 海音が起きたときには、亜美はもう出たあとだった。

 テーブルの上には何もなかった。付箋も、ラップをかけた皿も。

 シフトの翌朝は、いつもそうだった。



 駅裏のバーは、九月に入ってもまだ冷房を強くしていた。

 扉のベルが鳴った。

「海音くーん」

「いらっしゃいませ」

 顔は上げなかった。

 グラスを拭く手も止めなかった。

 甘い匂いが二つ、カウンターの前に座った。

「ねえ、最近どうしたの。全然連絡つかないんだけど」

「ご注文は」

「えー、それだけ?」

 女の子の連絡先は、もう一つも残っていない。八月の終わりの夜に、全部消した。

 届いたものは、どこにも届かなくなった。だからこうして、店まで来る。

「今日このあと、空いてる?」

「もう、行かないんで」

「何それ。どうしたの、急に」

「すみません」

 それ以上は言わなかった。



 前なら、ここで頷いていた。

 断るほうが面倒だったから。

 今は行かない。

 行かなくなった理由は、誰にも話していない。話せるものでもなかった。

 ここにだけは、と言った亜美の声が、まだ耳の奥に残っている。

 床に散らばった服を、一枚ずつ拾い集めた夜のことも。



 十時を過ぎたころ、扉のベルがまた鳴った。

 足音が一つだけ入ってきた。

 迷わない足音だった。踵の細い靴が、床を静かに叩いて、入口から一番遠い席で止まった。

「ギムレットを」

 低く、よく通る声だった。

 海音は顔を上げなかった。

 ジンとライム。シェイカーに氷を詰めて、振った。グラスに注ぐと、淡い緑が白く曇った。

「どうぞ」

「ありがとう」

 グラスの脚を、細い指が持った。

 顔は見なかった。見えたのは、手だけだった。



 女の人は、ゆっくり飲んでいた。

 カウンターの上にスマホを伏せて置いて、少しすると表に返した。画面を見て、また伏せた。

 それを、何度も繰り返していた。

 ギムレットには、別れの話がついて回る。

 大学一年のころ、店長に教わった。古い小説の中で、別れ際に飲まれる酒なんだと。だから一人で来たお客さんが頼むと、少しだけ気になるんだよね、と店長は笑っていた。

 別れようとしているのか。

 それとも、別れを告げられるのを、怖がっているのか。

 伏せては返されるスマホを、見ないふりをした。

 怖がっているのは、自分のほうだった。

 閉まったままの扉。いつ、出ていって、と言われてもおかしくない。



 十一時の少し前。

 スーツの男が、女の人の隣に座った。

 席は、ほかにいくらでも空いていた。

「一人?」

「ええ」

「待ち合わせ?」

「いいえ」

 声は変わらなかった。

 女の人は、男のほうを向かなかった。グラスだけを見ていた。

「じゃあ、一杯奢らせてよ」

「結構です」

「冷たいなあ。いいじゃん、一杯くらい」

 男の手が、カウンターの上を滑っていった。女の人の手首のほうへ。

 女の人は、一度も男を見なかった。

 目を合わせない。合わせなければ、何も始まらない。

 同じだ、と思った。

 海音は、布巾を置いた。

「お客様」

 男が顔を上げた。

「そちら、お連れ様じゃないですよね」

「は? 今、話してんだけど」

「お会計、こちらで伺います」

 男はしばらく海音を見ていた。

 海音は、男の顔も見なかった。

 舌打ちが一つ聞こえた。千円札が二枚、カウンターに投げられて、扉のベルが乱暴に鳴った。



「……助かったわ」

「仕事なんで」

 グラスを下げて、洗い場に置いた。

 水を出した。

「さっきから」

 声がした。

「私と、同じことしてるわね」

 手が止まった。

「目、合わせないの。あの子たちにも」

 さっきの二人のことだった。

 見られていたらしい。

 海音は、蛇口を閉めた。

「……目、合わせなきゃいいんで」

 小さく息の抜ける音がした。

 笑ったのかもしれなかった。

「そうね」

 グラスの縁を、指先がなぞった。

 それきり、女の人は何も言わなかった。

 海音も、何も訊かなかった。

 前は、顔を見ないまま始めていた。今は、顔を見ないまま終わらせている。

 この人も、たぶん。

 理由はなかった。そう思っただけだった。



「もう一杯、同じものを」

 ジンとライム。氷。

 二杯目のギムレットも、淡い緑のまま白く曇った。

 女の人は、それを半分ほど残して、零時の少し前に立ち上がった。

「ごちそうさま」

「ありがとうございました」

「……おやすみなさい」

 扉のベルが鳴った。

 顔は、最後まで見なかった。

 残ったのは、低い声と、ギムレットと、伏せては返されるスマホだけだった。



     *



 玄関の灯りは、消えていた。

 鍵を回す音を、できるだけ小さくした。

 靴を脱いで、踵を揃えた。

 廊下の先で、寝室の扉は閉まっていた。隙間は、なかった。

 海音はソファに横になった。

 天井を見た。

 ポケットからスマホを出した。

 残っている連絡先は、家族と、店と、亜美だけだった。

 亜美の名前を開いた。

 最後のやりとりは、八月のまま止まっていた。

 スマホを伏せて、胸の上に置いた。

 閉まった扉の向こうで、亜美が眠っている。

 いつか、出ていって、と言われる日が来るのかもしれない。

 その日まで。

 その日まででいいから、ここにいさせてほしかった。

 少しして、海音はスマホを表に返した。

 画面は、何も変わっていなかった。

 また、伏せた。